「伊良部秀輝」の版間の差分

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虚偽。7月27日は発見日であって死亡日でない。死亡日は不明であるのでブランクにすべき。明確に27日と書くのであればエビデンスを示すべき。おそらく24日か25日に死んだものと推定。
明確ではない死亡日の記載や遺体発見日ぼかしなど、不可解な編集が繰り返されていることから、冒頭より{{参照方法}}テンプレートを添付。ほか、各所追記・修正。
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{{参照方法|date=2021年5月}}
{{Infobox baseball player
|選手名 = 伊良部 秀輝
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|写真のコメント = 2009年
|国籍 = {{JPN}}
|出身地 = [[兵庫県]][[尼崎市]]([[沖縄県]][[コザ市]]生まれ)
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1969|5|5|no}}
|没年月日 = [[2011年]][[7月24日]]から[[7月27日|27日]]の間 (満52歳没) ※詳細は[[#死去|「死去」の節]]を参照。
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1969|5|5|2011|7|}}
|身長 = 193
|体重 = 108
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|経歴 =
* [[尽誠学園高等学校]]
* [[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ<br />千葉ロッテマリーンズ]] (1988 - 1996)
* [[ニューヨーク・ヤンキース]] (1997 - 1999)
* [[ワシントン・ナショナルズ|モントリオール・エクスポズ]] (2000 - 2001)
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|選出方法 =
}}
'''伊良部 秀輝'''(いらぶ ひでき、[[1969年]][[5月5日]] - [[2011年]][[7??24]]から[[7月27日|27日]]の間〔詳細[[兵庫県#死去|「死去」の節]]を参照〕)は、[[尼崎市日本]]出身<!-- 日本のみならず、北米圏でもプレーしていたことから、出身国名より明記します。出身地は、プロ入り前の経歴を参照。 -->の[[プロ野球選手]]([[投手]])。右投右打。日本プロ野球([[日本野球機構|NPB]])と[[北アメリカ]](北米)の[[メジャーリーグベースボール]](MLB)などでプレー。MLBでは、アジア人初の[[ワールドシリーズ]]チャンピオンであるを経験。2度のワールドチャンピオンに輝いている。
 
== 経歴 ==
=== プロ入り前 ===
[[沖縄県]][[コザ市]](現在の[[沖縄市]])生まれ<ref>{{Cite book|和書|author=[[田崎健太]]|title=球童 伊良部秀輝伝|publisher=[[講談社]]|page=7|isbn=978-4-06-218894-4}}</ref>、[[兵庫県]][[尼崎市]]育ち<ref>{{Cite book|和書|author=田崎健太|title=球童 伊良部秀輝伝|publisher=[[講談社]]|page=8|isbn=978-4-06-218894-4}}</ref>{{efn2|参考(出身地):
* 『プロ野球12球団全選手百科名鑑』『12球団全選手カラー百科名鑑』シリーズでは「沖縄県宮古市」と明記されていた。
** 1996年(ロッテ最終年)<ref name="12k_1996">『'96プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1996年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P125</ref>
** 2004年(阪神最終年)<ref name="12k_2004">『12球団全選手カラー百科名鑑2004』(『ホームラン』2004年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P34</ref> }}。実父は在日アメリカ空軍兵士であるアメリカ人スティーブ・トンプソン、日本人の実母・和江、ハーフとして生まれる<ref>{{Cite web|title=感動読み物この男がいたからダルビッシュ、田中はメジャー入りできた 伊良部秀輝 哀しき最速エースの肖像 後編 父との対面と、突然の別れ(週刊現代) @gendai_biz|url=http://gendai.ismedia.jp/articles/-/39466|website=現代ビジネス|accessdate=2021-03-10}}</ref>{{efn2|参考:
* 父がアメリカ人と明記<ref>{{Cite web|title=伊良部秀輝の“遺言”「父親がアメリカ人とは知らなかった」 – 日刊SPA!|url=https://nikkan--spa-jp.cdn.ampproject.org/v/s/nikkan-spa.jp/36060/amp?amp_js_v=a6&amp_gsa=1&usqp=mq331AQHKAFQArABIA==#aoh=16154082127798&referrer=https://www.google.com&amp_tf=%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9:%20%251$s&ampshare=https://nikkan-spa.jp/36060|website=nikkan--spa-jp.cdn.ampproject.org|accessdate=2021-03-10}}</ref><ref>{{Cite web|title=感動読み物この男がいたからダルビッシュ、田中はメジャー入りできた 伊良部秀輝 哀しき最速エースの肖像 後編 父との対面と、突然の別れ(週刊現代) @gendai_biz|url=http://gendai.ismedia.jp/articles/-/39466|website=現代ビジネス|accessdate=2021-03-10}}</ref>。実父は間もなく帰国した。尼崎市立常光寺小学校<ref>{{efn2|[[尼崎市立杭瀬小学校|杭瀬小]]との統合により廃校</ref>。}}、[[尼崎市立若草中学校|若草中学校]]を卒業後、[[香川県]]の[[尽誠学園高等学校]]に進学。2年生の夏の{{by|1986年}}と3年生の夏の{{by|1987年}}の[[全国高等学校野球選手権大会]]に投手として出場。2年の夏は初戦で敗退したが、3年の夏では1回戦で優勝候補の[[鈴木健_(内野手)|鈴木健]]擁する[[浦和学院高校]]を破り<ref>[https://www.jiji.com/jc/d4?p=ark001-01148210&d=d4_news 尽誠学園(香川)伊良部秀輝投手 写真特集:時事ドットコム] 時事通信社 2019年5月12日閲覧</ref>、3回戦では試合中に右手を痛めて[[島田直也]]、[[仁志敏久]]擁する[[常総学院高校]]に敗れた<ref>[https://www.jiji.com/jc/d4?p=ark001-01148211&d=d4_news 尽誠学園(香川)伊良部秀輝投手 2 写真特集:時事ドットコム] 時事通信社 2019年5月12日閲覧</ref>。高校では1学年後輩に[[佐伯貴弘]]、2学年後輩に[[宮地克彦]]がおり、佐伯とは寮で同部屋だった。
 
[[1987年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1987年のドラフト会議]]で[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]({{by|1992年}}より千葉ロッテマリーンズ)が1位指名で交渉権を獲得し、契約金5000万円、年俸500万円(金額は推定)で入団合意した<ref>朝日新聞、1987年11月29日付朝刊 (24面)</ref>。
 
=== ロッテ時代 ===
高卒新人・1度の{{by|1988年}}から1軍のマウンドを経験、[[村田兆治]]、[[前田幸長]]らとともにチームの弱小投手陣を支えた。入団2年目({{by|1989年}})に[[埼玉西武ライオンズ|西武]]の[[清原和博]]との対戦時に156km/hをマークするなど当時から球速はめっぽう速かったが、コントロールが悪くカウントを悪くしては失投を痛打されるなど入団後数年は試練の時が続いた。起用法も先発・リリーフなど一定ではなかった。{{by|1990年}}は8勝を挙げ頭角を現しかけるものの、翌{{by|1991年}}は3勝留まりと不振に終わる。オフの[[日韓プロ野球スーパーゲーム]]に日本選抜で出場した。翌{{by|1992年}}もリリーフ中心の起用で、勝ち星を挙げられなかった。
 
{{by|1993年}}5月3日の西武戦で清原との対戦時に158km/hをマーク<ref>{{Cite web|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1205/kiji/K20120503003175810.html|title=伊良部秀輝 日本新の158キロ!「清原さんだから」|publisher=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]|accessdate=2012-07-09}}</ref>。以後、清原和博との対決は「平成の名勝負」とうたわれ、シーズン後半から投球のコツを掴み7連勝を記録した。起用法も先発・リリーフ兼任からローテーション投手として固定されるようになった。また[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]監督の[[大沢啓二]]がマスコミ相手に「幕張の浜で伊良部[[クラゲ]]に刺された、イテテテ…」と言ったことから「'''伊良部クラゲ'''」の異名がつく。しかし伊良部本人は、真夏以降にしか活躍できないというマイナスの意味から、伊良部クラゲと呼ばれることを非常に嫌っていた。
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{{by|1994年}}、[[最多勝利|最多勝]]と[[最多奪三振 (日本プロ野球)|最多奪三振]]のタイトルを獲得、2年連続規定投球回数到達で防御率も2位だった<ref>[http://npb.jp/bis/yearly/pacificleague_1994.html 年度別成績 1994年 パシフィック・リーグ]</ref>。9月28日に行われた[[大島康徳]]の引退試合(対日本ハム戦)に登板し、大島は伊良部から2安打打っている<ref>[[週刊ベースボール]]2018年11月19日号、冷静と情熱の野球人 大島康徳の負くっか魂!!第83回、ゴリ押しした引退試合?、64-65頁</ref>。
 
{{by|1995年}}、[[小宮山悟]]、[[エリック・ヒルマン]]とともに先発投手陣三本柱として、チームの2位躍進に貢献。再びファン投票選出で[[1995年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場も第2戦で[[金本知憲]]に被本塁打され敗戦投手。[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]と2年連続の最多奪三振のタイトルを獲得した<ref>[http://npb.jp/bis/yearly/pacificleague_1995.html 年度別成績 1995年 パシフィック・リーグ]</ref>。また4試合連続2ケタ奪三振も2年連続で記録している。
 
{{by|1996年}}は本来は、自身が開幕投手の予定だったが故障で登板回避になり、開幕3連戦の他のローテーションは動かせないということで、急遽開幕2日前に4番手の[[園川一美]]が開幕投手を務めることに決まったという。2年連続で最優秀防御率のタイトルを獲得した一方で、当時GMであった[[広岡達朗]]に「打たれるのは闘争心が無いからだ!!」と翌日の[[サンケイスポーツ]]で言われたと記事にされていたりもした。3年連続で[[1996年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場自身初の監督推薦、初回表オールセントラル1番[[前田智徳]]2番[[立浪和義]]3番[[トーマス・オマリー]]の3者連続含め5奪三振と3回をパーフェクト。
 
同年オフにメジャーリーグへの移籍希望を表明し[[ニューヨーク・ヤンキース]]への入団を希望した。しかし、ロッテ球団は提携球団の[[サンディエゴ・パドレス]]に伊良部の保有権を永久的に譲渡する契約を交わした。それに対し伊良部は「ピンストライプのユニフォームの重さというのは野球を経験した者にしか分からない」と主張しあくまでヤンキースへの入団に拘り、エージェント[[団野村]]と契約し対応。大型トレードを仕掛け、最終的に三角トレードという形でヤンキース入団を果たし、4年1280万ドルで契約('''日本人初ヤンキース・メジャー契約選手''')した。この時、取材陣に対し伊良部は「アンタら凡人に[[ミケランジェロ]]の気持ちが解るか?オレはミケランジェロなんだよ」という言葉を発し、一部から顰蹙を買う([[伊良部メジャーリーグ移籍騒動]])。
 
実際には生き別れとなった実父を見つけるには、MLB屈指の名門チームであるヤンキースでプレーするのが最善と考えていたためだが、伊良部本人はこのことを最後までかたくなに否定し続け、また、自身の実父がアメリカ人であることは知らなかったと虚偽の発言までしていた<ref>[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/39355 『球童―伊良部秀輝伝』著:田崎健太---大きな軀をした子ども] 現代ビジネス</ref><ref>[http://book.asahi.com/reviews/column/2014070400001.html 球童―伊良部秀輝伝] 話題の新刊(週刊朝日)</ref><ref>[http://nikkan-spa.jp/36060 伊良部秀輝の“遺言”] 日刊SPA!</ref>。
 
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=== 阪神時代 ===
2002年12月7日に[[阪神タイガース]]と1年2億円で契約。約6年ぶりのNPB復帰となった。
 
{{by|2003年}}、監督の[[星野仙一]]は伊良部に抑えを任せたかったが、伊良部本人の希望により先発組となった。この年は[[2003年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも1996年以来7年ぶりに選出され、古巣・ロッテ時代の本拠地[[千葉マリンスタジアム]]での第2戦に先発して3回無失点と好投し、優秀選手賞を受賞した。そしてシーズンでは13勝を挙げ、阪神の18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献(前半9勝2敗、後半4勝6敗)。しかし、後半戦は球威が落ちて勝ち星は伸びなかった。[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]との[[2003年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第2戦と第6戦の2試合で先発するも機動力に翻弄され、いずれも早い回で降板して敗戦投手となった。
 
[[岡田彰布]]監督となった{{by|2004年}}はキャンプイン後の沖縄で暴行事件を起こして30万円の罰金処分を受けた<ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/baseball/npb/1880520/ 阪神の伊良部だからって「うぬぼれるな」 当時のスナックママが洗いざらい本紙に…] - 『東スポWEB』(東京スポーツ電子版)</ref><ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/baseball/npb/1882785/ 虎ナインは伊良部の“良き素顔”を強調も…なぜそこまで酒を] - 『東スポWEB』(東京スポーツ電子版)</ref>。開幕直前に[[タンパベイ・レイズ]]との[[日米野球]]プレシーズンゲーム先発。開幕早々に前年の日本シリーズで露呈したセットポジションでの欠点(盗塁を防ぐ牽制が下手な点)を衝かれ、登板数は3試合のみ、[[防御率]]は13.11という不調もあって、オフに[[戦力外通告]]を受けた。
{{by|2003年}}、監督の[[星野仙一]]は伊良部に抑えを任せたかったが、伊良部本人の希望により先発組となった。この年は[[2003年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも1996年以来7年ぶりに選出され、古巣・ロッテ時代の本拠地[[千葉マリンスタジアム]]での第2戦に先発して3回無失点と好投し、優秀選手賞を受賞した。そしてシーズンでは13勝を挙げ、阪神の18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献(前半9勝2敗、後半4勝6敗)。しかし、後半戦は球威が落ちて勝ち星は伸びなかった。[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]との[[2003年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第2戦と第6戦の2試合で先発するも機動力に翻弄され、いずれも早い回で降板して敗戦投手となった。
 
[[岡田彰布]]新監督の{{by|20042005年}}はキャンプイン後の沖縄で暴行事件を起こして30万円の罰金処分を受けた<ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/baseball/npb/1880520/ 阪神の伊良部だからって「うぬぼれるな」 当時のスナックママが洗いざらい本紙に…]</ref><ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/baseball/npb/1882785/ 虎ナインは伊良部の“良き素顔”を強調も…なぜそこまで酒を]</ref>。開幕直前に[[タンパベイ・レイズ]]との[[日米野球]]プレシーズンゲーム先発。開幕早々に前年の日本シリーズで露呈したセットポジションでの欠点(盗塁を防ぐ牽制が下手な点)を衝かれ、登板数は3試合のみ、[[防御率]]は13.11という不調もあって、オフに[[戦力外通告]]を受け翌年2005年開幕直前、最初の引退表明。ロッテ時代の同僚[[前田幸長]]によると、持病の膝痛に苦しんでの決断であった<ref>[https://dot.asahi.com/dot/2020072700007.html?page=2 「苦しんでいる投手助けたい…」伊良部秀輝の盟友が語る、剛腕の“本当の姿” (2/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)]</ref>。
 
=== 引退・現役復帰 ===
{{by|2005年}}3月上旬に現役を引退後に再び渡米し、[[グリーンカード]](外国人永久居住権)を取得して実業家に転身した。高校時代の友人と共同で、[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]で[[うどん]]の[[フランチャイズ]][[チェーンストア|チェーン]]「SUPER UDON」を開業する。当初は人気店だったが、その後閉店した。2008年8月には[[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]のバーでクレジットカードが使用できないことに腹を立て、店舗の破壊および店長を暴行した容疑で現行犯で逮捕された<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20080821-399315.html 伊良部逮捕!生ビール20杯飲み大暴れ]</ref>。伊良部は10月16日に書類送検されたが、不起訴処分となった。この件について団野村の著書『伊良部秀輝〜野球を愛しすぎた男の真実』によると、店側が伊良部のカードを[[スキミング]]しようとしていたことが原因であり、後日店側がスキミングを行っていたことが明らかになったという<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=Iuoy76-80sgC&pg=PA21&lpg=PA21&#v=onepage&q&f=false 団野村『伊良部秀輝: 野球を愛しすぎた男の真実』21頁 - Google ブックス]</ref><ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/E1361978604520/?p=2 伊良部秀輝はわがままでも傲慢でもなかった。ただ野球を愛しすぎたのだ]</ref>。
 
TVドキュメントによると、伊良部は引退した要因の一つであった膝の痛みが、かかとを浮かせた投球フォームから地に付けたフォームへと改良することで消えたことから、現役復帰を目指しトレーニングを開始した。{{出典無効|date=2021-01-25 |title=[[WP:TVWATCH]]}}
 
{{by|2009年}}4月27日、北米[[独立リーグ]][[ゴールデンベースボールリーグ]]」に加盟するロングビーチ・アーマダに入団(月給1,500ドル)。5年ぶりに現役に復帰し、初登板初先発で勝利投手になった。8月、日本独立リーグ「[[四国アイランドリーグplus|四国・九州アイランドリーグ]]」に加盟する[[高知ファイティングドッグス]]に入団(月給16 - 18万円)したが、同年9月、右手首[[腱鞘炎]]で全治3週間と診断されシーズン中の復帰が困難となり、伊良部側の希望により契約解除となり退団した。伊良部の高知での成績は2試合(12イニング)に登板して0勝0敗、6奪三振11四死球で防御率5.25であった。
 
{{by|2010年}}1月19日、伊良部はブログで2度目の引退を表明した。
 
=== 死去 ===
{{by|2011年}}7月27日、ロサンゼルス近郊の自宅で首を吊った状態で死亡しているのが発見された<ref name="asahi110729">{{Cite web |url=http://www.asahi.com/sports/baseball/npb/news/TKY201107290004.html |title=元ヤンキースの伊良部さん死亡 ロス近郊の自宅で |author= |publisher=朝日新聞 |accessdate=2011-07-29 |date=2011-07-29}}</ref><ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/07/30/kiji/K20110730001311140.html 自殺の伊良部氏の孤独な死「郵便物がたまっておかしいと思った」] - 『スポニチアネックス』2011年7月30日6時</ref><ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2816899 元NYヤンキース投手の伊良部さん、米自宅で死去] - 『AFP BB News』2011年7月29日 10:30 発信地:ロサンゼルス/米国</ref>。
 
伊良部は7月24日を最後に人前から姿を消しており地元の警察の捜査では[[自殺]]とされている<ref name="asahi110729" />。正確な死亡日は不明。ロサンゼルス郡検死官事務所によると、伊良部は血中から大量のアルコールが検出されており<ref>{{Cite web|date=2011-10-16|url=http://www.japantimes.co.jp/sports/2011/10/16/sports/coroners-office-says-irabu-intoxicated-at-time-of-death/#.VsCTNfmLRD8|title=Coroner’s Office says Irabu intoxicated at time of death|accessdate=2016-05-10}}</ref>、自殺の理由として、事業に失敗したこと、死の1ヵ月ほど前から妻子と別居状態が続いていたこと(既に離婚していたとする説もある<ref>[https://archive.fo/20120118085516/http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110730/bbl1107301420004-n1.htm 伊良部さんに新事実?1カ月前に離婚か…キヨ「悲しすぎます」] - 『ZAKZAK』2011年7月30日配信 ※archive.foの保存キャッシュ(保存時刻:2014年1月4日 19:51:18 UTC)…インターネットアーカイブの保存キャッシュ(保存時刻:2012年1月18日 08:55:16 UTC)からのアーカイブ</ref>)などで、精神的に追い詰められていた事情が指摘されている<ref>{{Cite web|date=2011-07-30|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/07/30/kiji/K20110730001313300.html|title=動機は?繊細だった伊良部氏「だまされ 心のよりどころだった家族とも…」|publisher=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]|accessdate=2011-07-30}}</ref>。
 
また、伊良部は日本で指導者となることを希望していたが受け入れる球団はなく、解説者や評論家の道も閉ざされており、野球人としての将来に不安を抱いていたとする指摘もあった<ref>{{Cite web|author=菅谷齊|date=2011-07-29|url=http://www.j-cast.com/2011/07/29102960.html|title=ふるさとに戻れなかった伊良部 引退後に不安持つ現役選手にも衝撃|publisher=[[J-CAST]]|accessdate=2011-07-30}}</ref>。
 
友人や関係者によって伊良部の自宅前に献花台と焼香台が設けられ、『阪神タイガース有志一同』などの献花<ref>{{Cite web|date=2011-08-08|url=http://www.asahi.com/national/update/0729/TKY201107290125.html|title=「タイガース有志一同」が献花 LAの伊良部さん友人ら|publisher=[[朝日新聞|Asahi.com]]|accessdate=2011-08-08}}</ref>や、[[阪神ファン]]によるものと思われる阪神タイガースの帽子が供えられた<ref>[[TBSテレビ|TBS]]『[[報道特集 (TBS)|報道特集]]』2011年7月29日のテレビ報道{{出典無効|title=放送番組の類は、基本的にリアルタイム外での検証が困難であるため。|date=2021年5月}}</ref>。29日にはニューヨーク・ヤンキースが試合前に黙祷した。伊良部がメジャー初登板初先発初勝利を挙げた試合で捕手を務めていたヤンキースの[[ジョー・ジラルディ]]監督は「一緒にいて楽しい、よきチームメートで、何度も好投してくれた。旧友を失うのはつらい。彼にも子供がいるし、悲しいことだ」と語り、チームメートの[[デレク・ジーター]]も「言葉の壁はあったが、周囲が思う以上にいろんなことを理解する楽しい人物だった。悲報を聞いたときは言葉を失ったよ」と語った<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20110730-812829.html ヤンキースが伊良部の死去受け試合前に黙とう][[日刊スポーツ]]、2011年7月30日。</ref>。阪神も30日に[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]との試合前に黙祷し、ユニフォームに喪章を着用してプレーした<ref>{{Cite web|date=2011-08-08|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/07/30/kiji/K20110730001315960.html|title=阪神 伊良部秀輝氏をしのび喪章をつけプレー|publisher=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]|accessdate=2011-08-08}}{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。同日、伊良部の古巣・ロッテも(前出の星野監督が就任間もない)[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]とのゲーム前に黙祷し、球場の大型ビジョンに伊良部の往年の雄姿を映し出した。
 
伊良部の葬儀は8月3日に近親者のみで行われ、遺骨は伊良部本人の希望ではロサンゼルスのリトル・トーキョーにある東本願寺別院に納骨してほしいとのことだったが、伊良部の妻とその母親の意向により四十九日を待たずに千葉市内の寺院で無縁仏として無量寿堂に納められた<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/6186982/ 嫁と実家の確執の末に伊良部秀輝氏の遺骨が「無縁仏」に] NEWSポストセブン 2012年1月13日</ref>。
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「日本プロ野球史上最速の投手は誰か」といった議論の際に、必ずといっていいほど名前を挙げられる投手である。2005年に[[マーク・クルーン]](記録時:[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]])が159km/hを記録するまで、[[山口和男 (野球)|山口和男]](記録時:[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]])、[[五十嵐亮太]](記録時:[[東京ヤクルトスワローズ]])らと共に[[日本プロ野球]]最速タイ記録(158km/h)を保持していた。1997年にはMLBで99マイル(159.3km/h)を記録している。<ref>http://mlb-info.com/fastestpitchrecord/</ref>
 
[[鹿取義隆]]は、伊良部の投じるフォークボールは[[野茂英雄]]が投じるそれよりも上だと述べている<ref name="base_20120723_17">「実力者たちが語る『この一球』過去の名投手編」(『週刊ベースボール」2012年7月23日号、P.1717)</ref>。鹿取曰くフォークで140キロ台後半が出るのは威圧感があったといい、打席から戻ってくる選手たちは「あの速さで落ちてきたら全く打てない」と言っていたという<ref name="base_20120723_17"/>。
 
速球を軸に押し切る豪快な投球スタイルで知られたが、年を重ねると共にコントロールを重視したスタイルへと変化していった。前述の最速記録の後に投げた157km/hの速球を清原に二塁打された事が、投球術を磨くきっかけとなった。巨体と独特の風貌に反して理論派であるという声も多く、91年日韓戦や03年球宴でバッテリー組んだ[[古田敦也]]は「阪神時代の伊良部は、投球術を駆使する軟投派だった」と証言している。ロッテ時代の先輩であった[[牛島和彦]]も「投球フォームの腕を上げる高さから足を下ろす位置、それによる球の軌道までをミリ単位といえる細やかさで考えているのが伊良部という投手」と語っている。
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{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}