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'''蕭 眎素'''(しょう しそ、生年不詳 - [[509年]])は、[[宋 (南朝)|南朝宋]]から[[梁 (南朝)|梁]]にかけての[[官僚]]・[[隠者]]。[[本貫]]は[[南蘭陵郡]][[蘭陵県]]。
 
== 経歴 ==
南朝宋の[[呉興郡]][[太守]]の蕭恵明([[蕭思話]]の子)の子として生まれた。幼くして父を失い、叔父の[[蕭恵休]]に養育された。[[斉 (南朝)|南朝斉]]の司徒法曹行参軍を初任とし、著作佐郎・太子舎人・尚書三公郎に転じた。[[永元 (南朝斉)|永元]]末年、太子洗馬となった。[[502年]]([[中興 (南朝斉)|中興]]2年)、梁国が建てられると、梁公[[蕭衍]]に召し出されて、梁国中尉・驃騎記室参軍となった。同年([[天監]]元年)、臨川王[[蕭宏]]の友とされた。太子中舎人・丹陽尹丞となり、司徒左西属・[[南徐州]]治中に転じた。
 
京口で余生を終えようと、摂山に居室を築いた。[[建康 (都城)|建康]]に召還されて中書侍郎とされたが、辞して就任しなかった。山宅に帰ると、独居して人との交際を断ち、親戚以外はその門を訪ねることはできなかった。[[509年]](天監8年)、死去した。[[諡]]は貞文先生といった。
 
== 人物・逸話 ==
* 南朝梁の武帝(蕭衍)に銭8万を賜ると、眎素は一朝のうちに親しい友人たちにばらまいてしまった。
* 静穏な隠棲生活を望んで、世俗的な欲に乏しく、学問を好み、清談を得意とし、名利に関わることを口に上らせず、喜怒を顔色に表さなかった。
* [[王倹 (南朝斉)|王倹]]の娘を妻としたが、長らく別居しており、子はなかった。
 
== 伝記資料 ==
* 『[[梁書]]』巻52 列伝第46
* 『[[南史]]』巻18 列伝第8
 
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[[Category:中国南朝の人物]]
[[Category:蘭陵蕭氏|しそ]]