「アレン・ウェルシュ・ダレス」の版間の差分

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=== CIA長官 ===
戦後、[[ニューヨーク]]での[[弁護士]]業に戻っていたが、[[1950年]]に[[ウォルター・ベデル・スミス|W・ベデル・スミス]]陸軍中将が[[中央情報局]](CIA)長官に就任すると、ダレスはCIA作戦本部長の地位を得て、[[1951年]]よりCIA副長官を務めた。そして[[1953年]]、[[共和党 (アメリカ)|共和党]][[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]政権の発足に伴い文民で初めてCIA長官に就任した。トルーマン時代まで情報収集を主要な活動としていたCIAが、彼の得意分野である『暗殺や破壊工作』・謀略などに主眼を置く工作機関として再編され、人員・予算ともに巨大な規模にまでなったのは、彼が残した負の遺産であった。彼は実兄の[[ジョン・フォスター・ダレス]]国務長官とともに、アイゼンハワー政権の冷戦外交に大きな影響を与えた。
 
任期中に[[イラン]]の[[モハメッド・モサデグ]]政権転覆作戦(エイジャックス作戦、1953年 [[:en:Operation Ajax]])や[[グアテマラ]]の[[ハコボ・アルベンス・グスマン]]({{lang-es-short|Jacobo Árbenz Guzmán}})政権転覆作戦([[PBSUCCESS作戦]]、1954年)を指揮し、また国内メディアのコントロールを図るモッキンバード作戦 ([[:en:Operation Mockingbird]]) を監督した。また、[[ジュネーヴ協定]]後の初期段階の[[ベトナム]]介入に関わった。
 
[[キューバ]]が[[フィデル・カストロ]]により共産化されると、アイゼンハワー政権末期からダレスは[[ピッグス湾事件|ピッグズ湾侵攻計画]]を策定した。この計画は[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]政権に引き継がれ、[[4月17日]]に計画は実行されたが、ダレスは実行部隊である亡命キューバ人部隊には正規の[[アメリカ軍正規軍]]の投入を約束し、反対にケネディには[[アメリカ軍]]の介入なしに作戦を成功できると確約して二枚舌を使った。
 
しかし、実行段階ではキューバ側の反撃で亡命キューバ人部隊が敗走し、ケネディ大統領にアメリカ正規軍投入の決断を迫る局面でその役目を副長官のカベル将軍に押し付けた事でケネディに狡猾とみなされてを招くことになり、軍投入を拒否されてしまう。その結果として亡命キューバ人部隊はキューバ側の反撃で壊滅し作戦は失敗に終わった。ケネディ政権発足から間もな政治的な大黒星をつけたこの問題で[[1961年]]11月、ダレスはケネディの不興を買って解任されたが、主要な部局には自分の腹心を配置することで後任の[[ジョン・マコーン]]の政治力を削り、以後もCIAの活動に影響を与えた。
 
だが、これはCIAという国家の[[情報機関]]の中枢を”外部から”コントロールするという行為であり、国家安全保障上犯罪的と見なされ、告発されなければ異常とも言える行動だったはずだったにもかかわらず、それを非難し、阻止しようとする組織、政治家が現れないという奇怪な立場に彼がいたことを伺わせ、後年、[[ディープステート|高度に政治的な秘密組織]]に彼が在籍していたと疑われる一因となった。
 
=== 死去 ===
[[1963年]]11月22日にケネディが[[暗殺]]されると、ケネディとの確執事件考慮調査れば真相究明の担当者としては明らかに不適と見なされ立場であったにもかかわらず、[[ウォーレン委員会]]のメンバーに任命された。[[リンドン・ジョンソン|ジョンソン]]政権下では賢人会議のメンバーとなり、アメリカのベトナム政策に影響を与えた。
 
また、[[1969年]]に[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]政権が発足すると、[[アメリカ国家安全保障会議|国家安全保障会議]]のメンバーとなった。同年に[[インフルエンザ]]をこじらせ[[肺炎]]で死去。75歳であった。