「高野長英」の版間の差分

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天保10年([[1839年]])、[[蛮社の獄]]が勃発。長英も幕政批判のかどで捕らえられ(奉行所に自ら出頭した説もある)、永牢[[終身刑]]の判決が下って[[伝馬町牢屋敷]]に収監<ref>{{Cite news|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200824-00194508/|title=19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫) |newspaper=Yahoo!ニュース|date=2020-08-24|accessdate=2020-12-02}}</ref>。牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。これらの行動と親分肌の気性から牢名主として祭り上げられるようになった。獄中記に『[[わすれがたみ]]』がある。
 
[[弘化]]元年([[1844年]])[[6月30日 (旧暦)|6月30日]]、牢屋敷の火災に乗じて[[脱獄]]。この火災は、長英が牢で働いていた[[非人]]栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力である。脱獄の際、三日以内に戻って来れば[[減刑|罪一等減じる]]が戻って来なければ[[死罪]]に処す<ref>「切放(きりはなし、きりはなち)」と呼ばれ、火災時には避難目的での一時釈放が制度化されていた。[[石出帯刀]]も参照。</ref>との警告を牢の役人から受けたが、長英はこれを無視し、再び牢に戻って来ることはなかった。脱獄後の経路は詳しくは不明ながらも(江戸では[[人相書き]]が出回っていたためと言われている)[[硝酸]]で顔を焼いて人相を変えながら逃亡生活を続け、[[大間木 (さいたま市)|大間木村]](現:[[さいたま市]][[緑区 (さいたま市)|緑区]])の高野隆仙のもとに匿われた<ref>{{Cite book|和書 |author =「角川日本地名大辞典」編纂委員会 |year = 1980-07-08 |title =[[角川日本地名大辞典]] 11 埼玉県 |publisher =角川書店 |page=182|isbn =4040011104 |ref=chimeiDic }}</ref>。高野家離座敷は文化財<ref>[https://www.city.saitama.jp/004/005/004/005/009/p000657.html 旧高野家離座敷] さいたま市</ref>として公開されている。後に、一時江戸に入って鈴木春山に匿われ、兵学書の翻訳を行うも春山が急死。鳴滝塾時代の同門・[[二宮敬作]]の案内で[[伊予国|伊予]][[宇和島藩]]主[[伊達宗城]]に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。主な半翻訳本に[[砲家必読]]11冊がある。このとき彼が築いた[[久良砲台]](愛南町久良)は、当時としては最高の技術を結集したとされる。しかし、この生活も長くは続かず、暫くして江戸に戻り、「沢三伯」の偽名を使って町医者を開業した。医者になれば人と対面する機会が多くなるため、誰かに見破られることも十分に考えられた。[[硝酸]]で顔を焼いて人相を変えていたとされている。
 
[[File:Aoyama-Spilal-ChoeiTakano-MemorialPlate.jpg|thumb|200px|right|南青山の「高野長英先生隠れ家」の碑]]