「セクストゥス・アップレイウス (紀元前29年の執政官)」の版間の差分

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[[カッシウス・ディオ]]は、[[紀元前12年]]前後にアップレイウスと[[ガイウス・マエケナス]]は、姦通の手助けをしたとして告訴されたとしている<ref>カッシウス・ディオ『ローマ史』、LIV 30,4</ref>。アシア属州に残る碑文によると<ref>L'Année épigraphique 1966, 422</ref><ref>Inscriptiones Latinae Selectae 8783 from Pergamo</ref><ref>L'Année épigraphique 1966, 425</ref>、アップレイウスは[[プブリウス・クィンクティリウス・ウァルス]]の女兄弟であるクィンティラという女性と結婚し<ref name = R1 />、二子をもうけた。息子は紀元14年の執政官セクストゥス・アップレイウス、娘はアップリア・ウァリリアであるが、姦通罪で追放されている<ref name = R6 /><ref>[[タキトゥス]]『年代記』、II, 50.</ref>。
 
[[紀元前8年]]の段階で、ティベリウス・クラウディウス・ネロ(将来の第二代皇帝[[ティベリウス]])の後任としてアップレイウスが[[イリュリクム]]属州総督を務めたことは分かっており<ref>Ronald Syme, The Augustan Aristocracy, p. 152</ref><ref>[[カッシオドルス]]『世界史』 、II 135.</ref>、その職を[[ルキウス・ドミティウス・アノバルブス (紀元前16年の執政官)|ルキウス・ドミティウス・アノバルブス]]に引き継いでいる。またカエサルを神格化するための神職フラメン・ユリウス([[:en:Flamen|en]])であった可能性があり、[[アラ・パキス|アラ・パキス・アウグスタエ]](アウグストゥスの平和の祭壇)に彫られた中年のフラメンは、アップレイウスではないかとの指摘がある<ref>Pollini, J., 'Ahenobarbi, Appuleii and Some Others on the Ara Pacis', p. 458</ref>。没年は不明である。
 
==脚注==