「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m リンク修正 using AWB
m →‎出自: リンク修正 using AWB
23行目:
父は当時最も影響力があった[[パトリキ]](貴族)である[[セルウィリウス氏族]]<ref>Bedian E., 2010 , p. 167.</ref> 出身の妻と結婚していることから<ref>Lutatius 7, 1942 , s. 2073</ref>、ルタティウス氏族がローマ上流階級で一定の重みを持っていたことが分かる<ref name = R2 />。母方の祖父[[クィントゥス・セルウィリウス・カエピオ (紀元前140年の執政官)|クィントゥス・セルウィリウス・カエピオ]]は[[紀元前140年]]の執政官で、[[ルシタニア戦争]]の際は敵の指導者であるヴィリアトゥスを暗殺した(紀元前130年)。叔父(母の弟)[[クィントゥス・セルウィリウス・カエピオ (紀元前106年の執政官)|大カエピオ]](紀元前106年執政官)は[[キンブリ・テウトニ戦争]]の[[アラウシオの戦い]]での敗北の責任者である。大カエピオは、当時最も有力な一族であった[[カエキリウス・メテッルス家]]の支持者の一人であった<ref>Rijkhoek 1992 , s. 70-71.</ref>。その子[[小カエピオ]](カピトリヌスの従兄弟)は改革派の[[護民官]]マルクス・リウィウス・ドルススの政敵であった<ref>Servilius 50, 1942 , s. 1786-1787.</ref>。
 
カピトリヌスには姉または妹がおり、紀元前69年の執政官であり、優れた弁論家であった[[クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス]]の妻となっている<ref>キケロ『弁論家について』、III, 228.</ref>。1世紀の歴史家クィントゥス・アスコニウス・ペディアヌスが、紀元前96年の執政官[[グナエウス・ドミティウス・アノバルブス (紀元前96年の執政官)|グナエウス・ドミティウス・アノバルブス]]を、カピトリヌスの叔父としていることから<ref>アスコニウス・ペディアヌス『コルネリウス弁護』、80.</ref>、父は紀元前122年の執政官[[グナエウス・ドミティウス・アノバルブス (紀元前122年の執政官)|グナエウス・ドミティウス・アノバルブス]]の娘ドミティアと結婚したとの説もあるが<ref>Lewis R. The, 1974 , r.107.</ref>、一方でこれを疑問視する向きもある<ref>Korolenkov A., 2009 , p. 216.</ref>。
 
==経歴==