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[[1918年]]([[大正]]7年)7月、それまで日本に飛行機および関連器材を輸出していたフランス政府は、同国軍人によって飛行機製作とその使用に関する指導を日本で行う提案をした<ref>『陸軍航空兵器の開発・生産・補給』35頁</ref>。日本陸軍首脳部はこれを歓迎し、フランス側の費用負担による航空教育軍事使節団(以下、「[[フランス航空教育団|フランス航空団]]」<ref group="*">団体名は陸軍部内文書の「佛國航空團」にもとづく。{{アジア歴史資料センター|C03011253900|大日記乙輯大正8年(防衛省防衛研究所)}}</ref>と記述)派遣が決定した。同年12月、陸軍省はフランス航空団の指導の能率化を図るため'''臨時航空術練習委員'''を組織し、これを操縦班、射撃班、機体製作班、発動機製作班など8班に分け、準備に当たった<ref>『陸軍航空兵器の開発・生産・補給』36頁</ref><ref>『陸軍航空の軍備と運用(1)』89-90頁</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C02030896700|大日記甲輯 大正08年(防衛省防衛研究所)}}</ref>。[[File:FrenchMilitaryMissionToJapan.jpg|250px|thumb|フォール大佐とフランス航空団]]
 
[[1919年]](大正8年)1月、{{仮リンク|ジャック=ポール・フォール|fr|Jacques-Paul Faure}}<ref group="*">Jacques-Paul Faure(1869年11月14日 - 1924年8月24日)。フランス陸軍砲兵大佐、最終階級は陸軍少将。{{アジア歴史資料センター|C02030896700|大日記甲輯 大正08年(防衛省防衛研究所)}}『日本陸軍航空秘話』13頁</ref>[[大佐]]を団長とするフランス航空団57名が来日した<ref>『陸軍航空史』39頁</ref>。当初、教育指導は[[所沢陸軍飛行場]]と[[岐阜県]][[稲葉郡]]の各務原陸軍演習場<ref group="*">航空第2大隊が置かれ、飛行場として使用していた。</ref>でその大部分を行う予定であったが<ref>『陸軍航空史』40頁</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C02030896700|大日記甲輯 大正08年(防衛省防衛研究所)}}</ref>、フランス航空団の助言を取り入れ、個々の練習に適した場所があらためて選定された<ref>{{アジア歴史資料センター|C07060723400|大正8年5月 西受大日記(防衛省防衛研究所)}}</ref>。臨時航空術練習委員のうち空中偵察、射撃観測、無線通信、写真等を教育する'''偵察観測班'''は砲兵との連携が重視されるため、千葉県[[印旛郡]]の[[陸軍野戦砲兵学校|陸軍野戦砲兵射撃学校]]とその近隣にある下志津陸軍演習場を利用して同年3月より教育指導を行った<ref>{{アジア歴史資料センター|C07060727900|大正8年5月 西受大日記(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C07060961700|大正9年5月其3 西受大日記(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C07060734200|大正8年6月 西受大日記(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C07060745700|大正8年6月 西受大日記(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C07060840400|大正8年11月 西受大日記 其1(防衛省防衛研究所)}}</ref>。
 
=== 陸軍航空学校下志津分校 ===