「姉小路頼綱」の版間の差分
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「上洛」項を「上洛と拝謁」の項と合体。独立している意味が不明のため。また「逸話」項の、出典不明かつ意味が解りづらい文章を除去。 |
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'''姉小路 頼綱'''(あねがこうじ よりつな)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]・[[安土桃山時代]]の[[武将]]、[[大名]]、[[公卿]]、[[公家]]。[[飛騨国|飛騨]][[姉小路氏]](三木姉小路氏)の当主。父は[[姉小路良頼|姉小路良頼(嗣頼)]]。妻が[[斎藤道三]]の娘であるため、[[織田信長]]とは相婿の間柄になる。幼名・岩鶴丸<ref>「岐阜県史」</ref><ref>「明禄」</ref>。
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==== 上洛と拝謁 ====
南隣の[[美濃国]]を[[斎藤氏]]から奪った[[織田信長]]は永禄11年([[1568年]])に[[上洛]]を果たすと、[[
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このように信長と誼を通じる一方で、元亀3年([[1572年]])には[[上杉謙信]]の要請に応じて[[越中国]]に出兵し、[[上杉氏]]に通じる姿勢も同時に示した。これは大勢力に囲まれた小勢力の、最前線のパワーバランスを保つための努力と言える。
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== 逸話 ==
* 三木氏は姉小路家を[[簒奪]]し[[僭称]]したが、頼綱は京に縁のある姉小路家当主として振る舞い、様々な対応をしていた。1579年(天正7年)には
▲* 永禄13年([[1570年]])2月、織田信長に上洛を命じられた[[姉小路良頼]]は、子の頼綱を名代として上洛させた。「姉小路中納言殿 同飛騨国衆」と記録されている。<ref name=":0" />。
▲: 3月1日、[[山科言継]]や[[三条公仲]]、織田信長らが将軍[[足利義昭]]に祗候した際の多くの武家衆・公家衆の中に「公家衆」として頼綱が記されている<ref>『言継卿記』</ref>。同日、信長が禁裏に参じた際、同行した<ref>『言継卿記』中の参内者名簿には記されていない。</ref>。
▲: 3月3日、将軍足利義昭に祗候した多くの武家・公家の中で、公家衆の一人として「姉小路侍従」として記録されている。祗候の順は公家衆は武家衆の後であった<ref>『言継卿記』</ref>。
▲: 3月4日、[[土御門有脩]]と共に頼綱が山科言継邸を訪れた<ref>『言継卿記』</ref>。
▲: 4月1日、信長が足利義昭のために急造した[[二条城#足利義昭の二条城|武家御所]]の落成祝儀として[[猿楽]]の宴が開かれ、幕府の御供衆・御走衆および外様衆・公家御相伴衆などが招かれた。[[織田信雄]]・徳川家康・[[畠山高政]]・[[一色義道]]・[[三好義継]]・[[松永久秀|松永弾正]]・[[北畠具教]]ら諸衆と共に頼綱も陪席した<ref>『信長公記』など</ref>。
▲: 4月11日、織田家の祐筆[[武井夕庵]]が、頼綱の宿所を訪問した<ref>『言継卿記』</ref>。
▲: 4月18日には、頼綱は[[小御所]]の[[正親町天皇]]に[[参内]]し、[[昇殿]]の御礼をしている<ref>{{Cite book|和書|author=谷口研語|chapter=織田家信長の側近武井夕庵の使いと十一日の要件|title=飛騨 三木一族|publisher=新人物往来社|year=2007|page=163}}</ref>。『[[御湯殿上日記]]』には、永禄6年([[1563年]])3月12日の「侍従」任官の礼として、馬・太刀を献上したと記されている。
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* 「大和守。松倉在城。初名左京大夫。入道シテ久安ト号ス。永禄元戊午歳・・・(中略)・・・京妙覚寺ノ日善上人ノ弟子ト為テ法蓮坊ト伝日・・・(中略)・・・弘治二年丙辰四月日戦死セリ此義龍是ハ頼芸ノ子ナリト伝フ以上岐斎家記ハ濃州土岐斎藤両ノコトヲ記スル書ナリ」<ref>「(三木氏略系) [[飛州志]]」</ref>
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
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