「エヒタナハ」の版間の差分
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→歴史: 修道院の図書館と写字室の優れた美術品について脚注に文献を示した。 |
→歴史: 修道院とそれの元になった建物について事典に基づき記述。 |
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==歴史==
[[File:EchternachDancingProcession.jpg|thumb|200px|舞踊付きの礼拝行進]]
先史時代の居住の跡が見られる。ローマ帝政期の邸宅や集落を囲む防備施設、墓地等の存在が証明されている。<ref>''Lexikon des Mittelalters''. Bd. III. München und Zürich: Artemis 1986 (ISBN 3-7608-8903-4), Sp. 1542. </ref>
[[ノーサンブリア王国]]出身の修道士で、のちに初代[[ユトレヒト]][[司教]]となり、[[フリジア人]]のキリスト教化に尽力した、[[聖ウィリブロルド|聖ウィリボード]]が[[698年]]に創建したエヒタナハ修道院の壁周辺に、定住地としてエヒタナハは発展した。司教として、ウィリボードは亡くなる739年まで修道院を指揮した。毎年[[ペンテコステ]]の3日目には、彼にちなむ舞踊付きの[[エヒタナハの踊りの行進|礼拝行進]]が行われている。
かつて町の中を流れていた[[シュール川]]([[:en:Sauer]])は今ルクセンブルク=ドイツ国境となっているが、[[ローマ帝国]]末期と[[メロヴィング朝]]期には、これは全て辺境領ではなかった。
[[697年]]/[[698年]]、[[フランク族|フランク]]王[[ダゴベルト3世]]の娘で Trier-Oerenの修道院長であったイルミナ(Irmina)は、自ら部分的に所有する屋敷と(villa Epternacus)と教会施設をウィリボードに贈った。[[706年]]、ウィリボードは屋敷の残りの部分を Plektrud と[[ピピン3世]](小ピピン)から寄贈され、修道院施設を建設した。<ref>''Lexikon des Mittelalters''. Bd. III. München und Zürich: Artemis 1986 (ISBN 3-7608-8903-4), Sp. 1542-1543. </ref>
エヒタナハは、[[カール大帝]]の一族から庇護を受け続けた。[[859年]]から[[971年]]の間、トリーア司教の世俗的な規律によって追われ、[[1017年]]にはウィリボード時代の建物が焼け落ちたが、左右対称の塔を備えた[[ロマネスク様式]]のバシリカは、今もウィリボードの墓のある[[納骨堂]]を中に備えている。修道院の図書館と写字室(Echternacher Skriptorium;8世紀と11世紀に最盛期)は優れた美術品を所有制作していた。<ref>Hans Holländer: ''Kunst des frühen Mittelalters''. Stuttgart: Chr. Belser Verlag 1969 (Belser Stilgeschichte Band V), Abb. 6 (S. 18) und S. 140, Abb. 120 (S. 153) . </ref>エヒタナハの町は修道院の外壁周囲で形作られた。町が都市特権を得たのは[[1236年]]であった。[[1737年]]、修道院は端正な[[バロック様式]]で再建された。[[1797年]]、修道士たちは追放され、修道院の有名な図書館とその所蔵物は競売にかけられた。図書館が所有していた初期の写本の一部は、[[パリ]]の[[フランス国立図書館]]にある。修道院内には磁器工房がつくられていた。町は、鉄道ができ観光客がやってくるまで衰退していた。 ==史跡==
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