「アルブレヒト・アヒレス (ブランデンブルク選帝侯)」の版間の差分

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副え名の「アヒレス」(=[[アキレウス]])は、後の[[教皇]][[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]]が授けたものである。彼は戦争司令官として、あるいは外交官として政治上の活動を続けた。彼がブランデンブルクの統治権を手に入れた後、[[1472年]]に年来の[[ポメラニア公国|ポンメルン]]との戦争終結に成功した。
 
[[1473年]]にホーエンツォレルン家の家内法として『Dispositio Achillea(アヒレスの処分状)』を策定した。これは、ブランデンブルク選帝侯領の分割について文書化して定めたものである。この文書は選帝侯位について、その時の最年長の息子だけがこれを継承することを定めた。同年、アルブレヒトはブランデンブルク選帝侯位の第一相続人として長男の[[ヨハン・ツィーツェロ (ブランデンブルク選帝侯)|ヨハン・ツィーツェロ]]を指名した。
 
[[1460年]]に[[アンスバッハ]]を宮廷所在地と定め、[[1469年]]にはゼッケンドルフの[[レーエン]]であったトリースドルフを獲得した。トリースドルフは、後にブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯の狩り場となる。
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*エリーザベト(1451年 - 1524年) - 1467年に[[ヴュルテンベルク君主一覧|ヴュルテンベルク公]][[エーバーハルト2世 (ヴュルテンベルク公)|エーバーハルト2世]]と結婚。
*マルガレータ(1453年 - 1509年) - [[1476年]]に[[ホーフ]]女子修道院。
*[[ヨハン・ツィーツェロ (ブランデンブルク選帝侯)|ヨハン・ツィーツェロ]](1455年 - 1499年) - ブランデンブルク選帝侯
*フリードリヒ - 夭折
[[1457年]]10月24日、[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]][[フリードリヒ2世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ2世]]の娘アンナ(1437年 - 1512年)と再婚。
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* [http://mdz.bib-bvb.de/digbib/lexika/adb/images/adb001/@ebt-link?target=idmatch(entityref,adb0010259) Allgemeine Deutsche Biographie (ADB). Bd. 1, S. 243] {{de icon}}
 
{{先代次代|[[ブランデンブルク統治者の一覧|ブランデンブルク選帝侯]]|1470年 - 1486年|[[フリードリヒ2世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ2世]]|[[ヨハン・ツィーツェロ (ブランデンブルク選帝侯)|ヨハン・ツィーツェロ]]}}
{{先代次代|[[アンスバッハ侯領|ブランデンブルク=<br />アンスバッハ辺境伯]]|1440年 - 1486年|[[フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ1世]]|[[フリードリヒ2世 (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|フリードリヒ2世]]}}
{{先代次代|[[バイロイト侯領|ブランデンブルク=<br />クルムバッハ辺境伯]]|1457年 - 1486年|[[ヨハン (ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯)|ヨハン]]|[[ジークムント (ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯)|ジークムント]]}}