「家制度」の版間の差分

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{{otheruses|日本の制度|大韓民国の制度|戸主制}}
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'''家制度'''(いえせいど)とは、[[1898年]]([[明治]]31年)に制定された[[大日本帝国憲法|明治憲法]]下の[[民法 (日本)|民法]]において規定された日本の[[家族制度]]であり、[[親族]]関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、'''戸主'''(こしゅ)と'''[[家族]]'''として一つの'''家'''に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。この規定が効力を有していたのは、1898年7月16日から1947年5月2日までの48年9か月半ほどの期間であった。
 
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戸主の制度は、最も古くは[[大化の改新]]に始まる。[[孝徳天皇]]の代における政治体制整備のため、古代から存在した家内の統率者たる[[家長]]に戸主の地位を与え、対外的な権利義務の主体としたのが始まりである<ref>[[中村清彦]]「我国の家政と民法(三)」『日本之法律』4巻8号、博文館、1892年</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=村上一博 |title=『日本之法律』にみる法典論争関係記事(4) |url=https://hdl.handle.net/10291/7010 |journal=法律論叢 |publisher=明治大学法律研究所 |year=2009 |month=mar |volume=81 |issue=6 |pages=289-350 |naid=120001941063 |issn=03895947}}</ref>。
 
[[1869年]][[7月25日]](明治2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]])、[[版籍奉還]]と同日に出された『公卿諸侯の称を廃し華族と改む』(明治2年[[太政官]]布達)、及び翌年の『宮並に華族家人の職員を定む』(明治3年太政官布告)により、従来の[[身分制度]]の[[公卿]]・[[諸侯]]の称を廃し、これらの家は華族となり'''家制度'''を維持することが定められた。公家137家・諸侯270家<ref group="注">このうち[[広島新田藩]][[浅野長厚|浅野家]]は廃藩後に華族となることを辞退した。</ref>・[[明治維新]]後に公家となった家5家<ref group="注">[[松崎家]]([[松崎万長]]家)・[[玉松家]]([[玉松操]]家)・[[岩倉具経]]家(岩倉具視の三男)・[[北小路家]]([[北小路俊昌]]家)・[[若王子家]]([[聖護院]][[院家]]若王子住職家)</ref>・維新後に諸侯となった家15家<ref group="注">徳川[[御三卿]]のうち2家([[一橋徳川家]]・[[田安徳川家]])、[[徳川御三家]]の[[附家老]]家5家([[成瀬氏|成瀬家]]・[[竹腰氏|竹腰家]]([[尾張徳川家]])、[[三河安藤氏#三河安藤氏嫡流|安藤家]]・[[水野氏#新宮藩水野家|水野家]]([[紀伊徳川家]])、[[中山氏|中山家]]([[水戸徳川家]]))、[[毛利氏]]の家臣扱いだった[[岩国藩]]主[[吉川氏|吉川家]]、1万石以上の所領を持つ[[交代寄合]]6家([[山名氏|山名家]]、[[福本藩|池田家]]、[[成羽藩|山崎家]]、[[平野氏|平野家]]、[[本堂氏|本堂家]]、[[生駒氏|生駒家]])、1万石以上の所領を持つ[[高家 (江戸時代)|高家]]だった[[堀江藩|大沢家]]。ただし大沢家は所領の水増し申告が露見し1万石以下であることが確認されたことから、後に華族の身分を剥奪され[[士族]]に編入された。</ref>の合計427家<ref group="注">徳川御三卿の[[清水徳川家]]は当主不在であり、翌年華族に列せられた。</ref>は新しい身分層である「華族」に組み入れられた。[[1884年]]7月7日には『[[華族|華族令]]』(明治17年[[:category:宮内省達|宮内省達]]無号)が定められ<ref>公爵11、侯爵24、伯爵76、子爵327、男爵74に授爵 伊藤博文伝 春畝公王頌会編</ref>、[[1886年]]4月29日に『華族世襲財産法』(明治19年[[勅令]]第34号)が公布された。
 
[[1896年]]の民法典制定前の「家」は、あたかも莫大な権利義務を有する[[法人]]のようなものであった。戸主個人は権利義務の主体ではなく、家の代表者として強大な権利を行使するかわりに、家産・家業・祭祀を維持する重い責務を負う存在にすぎなかった。ところが明治維新によって職業選択の自由が確保されると、このような生活モデルは崩壊する。諸外国の例を見ても、家父長制が徐々に崩壊して[[個人主義]]へ至ることが歴史の必然と思われたが、かといって未だ慣習として[[家族制度]]が根付いている以上、法律をもって強引に家制度を無くすことも憚られた。そこで、近い将来の改正を前提とし、[[所有権]]と[[平仄#概要|平仄]]を整え、戸主権の主体を家ではなく戸主個人としたうえで家産を否定し、戸主の権限を従前よりも大幅に縮小する過渡的な暫定規定を置くこととしたのである<ref>岩田新『親族相続法綱要』(同文館、1926年)59-61頁</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=宇野文重 |title=明治民法起草委員の「家」と戸主権理解 : 富井と梅の「親族編」の議論から |url=https://doi.org/10.15017/8837 |journal=法政研究 |issn=03872882 |publisher=九州大学法政学会 |year=2007 |month=dec |volume=74 |issue=3 |pages=523-591 |naid=120000984402 |doi=10.15017/8837}}</ref>。
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* 廃絶家の再興は市町村長に届け出ることを要する(旧戸籍法164条)
 
再興した者はその家の戸主となり廃絶家の氏を称するが、廃絶家前の債権・債務など各種の権利・義務を引き継ぐ訳ではないため、単に家の名を残し、本家と分家といった家系を残す程度の効果しか無く[[祭|祭祀]]相続としての意味合いが強かった。<ref group="注">旧民法が効力を持っていた[[戦前]]期(及び2017年6月現在でも各家庭・地域によっては)「家系の祭祀」を継ぐことが名誉ある責務と考えていたため、この規定が定められていた。</ref>
 
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== 出典 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==