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== 鎌倉時代・南北朝時代 ==
=== 下総結城氏の繁栄とその衰退 ===
結城朝光とその子・[[結城朝広|朝広]]の時代、幕府の要職を歴任し、鎌倉府の御家人の中心として繁栄期を迎えた。しかし、朝広の子・[[結城広綱|広綱]]以降は当主の早世と少年新当主の家督継承(直光を除き基本、数え12歳以下の幼少である){{Efn|4代目時広は12歳前後(広綱の没年に諸説あり)、5代目貞広は2歳、6代目朝祐は1歳、7代目直朝は12歳、8代目直光(直朝の弟)は16歳で家督を継承している。}}が相次ぎ、衰退することになる。[[元弘]]3年([[1333年]])、当時の当主・[[結城朝祐]]は[[足利尊氏|足利高氏(後の尊氏)]]の上洛軍に加わってそのまま[[六波羅探題]]攻撃に参加、[[建武の新政|建武政権]]より本領安堵を得た。ところが、庶流である[[白河結城氏]]の[[結城宗広]]が早くから討幕に参加していたということで、[[建武 (日本)|建武]]元年([[1334年]])に結城宗広に対して「結城惣領」として一族を統率するようにとする後醍醐天皇の綸旨が下された<ref>白河集古苑所蔵『白河結城家文書』「正月十八日後醍醐天皇綸旨案」(なお、同文書中に「元弘三年」の注記が挿入されているが、実際には天皇の京都復帰後の「元弘四年(建武元年)」が正しいとされている)</ref>。実際に惣領に還付されるべき結城一族の跡が宗広に宛がわれ、さらに建武2年([[1335年]])には[[北畠顕家]]によって突如、朝祐の所領であった[[陸奥国]][[糠部郡]]七戸が没収されて[[南部政長]]に与えられている<ref>髙橋、2010年、P20-23</ref>。こうした経緯から、朝祐は[[足利氏]]に接近して足利尊氏と共に建武政権に反旗を翻してその覇業を助け転戦することになる。その結果、朝祐は[[多々良浜の戦い]]で戦死し、後を継いだ[[結城直朝|直朝]]も[[関城]]攻防戦で戦死している。『梅松論』には建武3年([[1336年]])正月に京都において下総結城氏及び同族の小山氏は敵の南朝方にいる白河結城氏の軍勢と区別するために右袖を割いて冑につけて戦ったという故事が記されている{{Efn|両結城・小山氏は家紋が同一のため、同士討ちを避けるためという。}}。また、同年12月には北畠顕家・白河結城氏の軍が結城郡に侵攻している{{refnest|『茂木文書』「建武三年十二月日[[茂木知貞]]軍忠状」(『大日本史料』第六編三所収{{Sfn|史料編纂所|1903|pp=913-915}})}}。また、結城直朝の戦死のきっかけとなった関城を支配する[[関氏]](藤姓関氏)も下総結城氏の庶子でありながら南朝方についた一族であり、結城一族は南北に分かれて争うことになった。
 
こうした状況の中で下総結城氏は一貫して足利氏を支持し、結城直朝の弟・[[結城直光|直光]]の代には[[安房国]][[守護]]を務めるなど再興を果たしている。また、一時は白河結城氏に渡った惣領の地位も同氏の内紛の影響もあり、宗広没後は再び下総結城氏の下に戻った。