「来島通総」の版間の差分

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休戦期を挟んで慶長2年(1597年)から再開された[[文禄・慶長の役#慶長の役|慶長の役]]では水軍として編成された後、[[南原城攻略]]戦では600人を率いて陸軍として戦った。その後再度水軍となり[[全羅道]]沿岸を掃討するために進撃した。9月16日の[[鳴梁海戦]]では先鋒となって海峡に突入したが、潮流などの地の利を生かした朝鮮水軍の[[板屋船]]の攻撃を受けて戦死した。享年37。
この敗死に至る経緯について、[[小川雄]]は著書の中で「[[得居通幸]]の戦死も含め、大勢的には勝利を収めながら、これだけの被害を出したのは来島村上氏のみで、多くの海賊(水軍衆)が秀吉の国内統一の過程で大大名に吸収され自立性を失う代わりに、その資本力を背景に船舶の大型化・火力の増強など運用が大規模化していった中で、早くから秀吉に転属して大名としての自立性を与えられていた事が、却って枷となり大規模運用への転換ができず海賊衆としての存在感を失っていった結果ではないか」と考察している。{{Sfn|小川|2020|p=167}}
 
この海戦では通総など先鋒の被害が大きかったものの、日本水軍は全羅道西岸への進出を果たした。日本側の捕虜となった[[姜沆]]は『看羊録』の中で日本の武将の仕組みについて「戦亡した将士はその子弟が職を継ぎ、[[池田景雄|池田秀雄]]が[[珍島]](または安骨浦)で病死した時は子の[[池田秀氏|秀氏]]が直ちに軍中で代わって職を受け、通総が全羅右水営で戦死した時も、弟が代わってその城に居ることになった」と記しており、通総の敗死に触れている。