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東逍寺 (会話 | 投稿記録)
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== 歴史 ==
[[File:Map ofThe east barbarian 1.png|thumb|right|320px|[[2世紀]]頃の[[東夷]]諸国と[[濊貊]]の位置。]]
地域によっていくつかの集団に分けられ、臨屯濊と沃沮濊が主であり、臨屯濊は、衛氏朝鮮に服属していたが<ref>[[田中俊明 (朝鮮史)|田中俊明]]「朝鮮地域史の形成」『世界歴史9』[[岩波講座]]、[[1999年]]、ISBN 978-4000108294 p135</ref>、[[前漢]]の[[元朔]]元年([[紀元前128年|前128年]])には武帝は匈奴を討つと同時に匈奴と連動していた北東部の'''穢族である'''薉君の'''南閭'''らが、[[衛氏朝鮮]]の[[衛右渠]]に反逆を攻撃し、濊は28万人を率いて漢王朝に下り[[遼東郡]]に服属した。[[武帝 (漢)|武帝]]はこの地を[[蒼海郡]]としたが、数年で廃止した<ref>蒼海郡の廃止は前126年のことで、蒼海郡への道路建設で漢の国内や蒼海郡の人々が反対運動をおこしたので、この郡を廃止した。『[[史記]]』平準書・同公孫弘列伝、『[[漢書]]』武帝紀・同食貨志第四下</ref>。
 
武帝は[[元封 (漢)|元封]]3年([[紀元前108年|前108年]])に朝鮮を討伐し、[[衛満]]の孫の[[衛右渠]]を殺すと、その土地を分けて四つの郡([[真番郡]]・[[臨屯郡]]・[[楽浪郡]]・[[玄菟郡]])を置き、臨屯濊は真番郡や玄菟郡に入ることになる。これらの濊族系が後に扶余族や高句麗などの国を興すことになる。その後には、[[臨屯郡後漢]]にされ<ref>[[田中俊明建武 (朝鮮史)|田中俊明建武]]「朝鮮地域史の形成」『世界歴史9』6年([[岩波講座30年]])、辺境の郡を整理することにから、これら濊族系の首長が県侯となり、不耐・華麗・沃沮(夫租)の諸県はみな後漢の侯国となっていく。その後、濊族系の扶余族と高句麗が旧玄菟郡で勢力を増していく。そのため、[[1999建武 (漢)|建武]]8年([[32年]]ISBN 978-4000108294 p135</ref>扶余族は候から王になっていたが後漢は高句驪侯を高句麗王に昇格させ玄菟郡濊貊は夫余国と高句麗国の二つの王国沃沮城もつことなり分権統治が行われてく。他方、朝鮮半島の楽浪郡地域などでは各地に首長が並立し統一国家は作れなかった。その後、[[昭帝 (三国)|昭帝]]の[[ ()|]]56年([[紀元前82年|前82245年]])臨屯と真番を廃止し、楽浪[[太守]]の[[劉茂 (楽浪太守)|劉茂]][[玄菟帯方|帯方]]太守の[[弓遵]]は、領内の東濊が高句麗併せ従属しため軍を起こして討ち、配下の邑落を挙げて降伏した。8年([[247年]])、東濊は魏の宮廷へ朝貢し、改めて不耐濊王の位が授けられたのであるが、名目的なもので、濊王は一般の住民と雑居していて普通の住民のように待遇されて、季節ごとに郡の役所へ朝謁するように楽浪郡の完全な支配下に置かれている
 
[[元鳳]]6年([[紀元前75年|前75年]])、貊族(夷貊)の攻撃を受けて玄菟郡治が北西の高句麗県へ移り、沃沮・濊貊は尽く楽浪の管轄へ移った。また、管轄範囲が広く遠いことから、濊貊・沃沮の住む単単大嶺の東側の部分に楽浪東部都尉を置き、不耐城を治所として嶺東七県(東暆県・不耐県・蚕台県・華麗県・耶頭味県・前莫県・夫租県)に分けて治めさせた。
 
[[後漢]]の[[建武 (漢)|建武]]6年([[30年]])、辺境の郡が整理され、東部都尉も罷免された。その後、それぞれの県の渠帥(首長)が県侯となり、不耐・華麗・沃沮(夫租)の諸県はみな侯国となった。
 
[[建武 (漢)|建武]]8年([[32年]])、[[光武帝]]は高句驪侯を高句麗王に昇格させ、濊貊は夫余国と高句麗国の二つの王国をもつことになった。濊貊(江原道)と沃沮(咸鏡道)は各地に首長が並立し統一国家は作らなかった。夷狄(濊貊・沃沮)の間で争いが続き、不耐以外の侯国は滅びたが、不耐の濊侯だけは功曹や主簿などの官員を置き、今(晋代)も続いている。この不耐侯国の官吏はすべて濊族が担った。沃沮の村落の渠帥は、皆が古の県国制に則り三老を自称した。
 
[[魏 (三国)|魏]]の[[正始 (魏)|正始]]6年([[245年]])、楽浪[[太守]]の[[劉茂 (楽浪太守)|劉茂]]と[[帯方郡|帯方]]太守の[[弓遵]]は、領内の東濊が高句麗に従属したため軍を起こして討ち、不耐侯らは配下の邑落を挙げて降伏した。8年([[247年]])、魏の宮廷へ朝貢に詣でたため、詔を下し改めて不耐濊王の位が授けられた。濊王は一般の住民と雑居していて、季節ごとに郡の役所へ朝謁する。楽浪と帯方の二郡に軍征や特別の徴税があるときには、彼らにも税や夫役が割り当てられ、普通の住民のように待遇される。
 
== 習俗 ==