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'''シャンシェ'''([[グルジア語]]: შანშე、[[ラテン文字化|グルジア語ラテン翻字]]: შანშე、[[17世紀]]末 – [[1753年]])は、[[カルトリ王国]]の[[政治家]]。1718年より[[クサニ公国]]の[[エリスタヴィ]]となった。
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'''シャンシェ'''([[グルジア語]]: {{Lang-ka|შანშე}}[[ラテン文字化{{Lang-*-Latn|グルジア語ラテン翻字]]: შანშეka|Shanshe}}、[[17世紀]]末 – [[1753年]])は、[[カルトリ王国]]の[[政治家]]。1718年より[[{{仮リンク|クサニ公国]]|ka|ქსნის საერისთავო}}[[{{仮リンク|エリスタヴィ]]|ka|ერისთავი}}となった。
 
== 生涯 ==
シャンシェは[[1719年]]、カルトリ王[[ヴァフタング6世 (カルトリ国王)|ヴァフタング6世]]に対して反乱を起こしたものの失敗に終わり、[[イメレティ王国|イメレティ]]に追放された。シャンシェは辛うじて国外への追放から逃れることに成功した。そして1720年にも反乱を起こしたが、再び敗北した。その後、彼はヴァフタング6世王に忠誠を誓い、最後まで誓約を守った。
 
1723年に[[オスマン帝国]]がカルトリ地方およびカヘティ地方に侵攻し、オスマンの支配が確立した。シャンシェは他の[[{{仮リンク|タヴァディ]]|ka|თავადი}}らとともにオスマン帝国へ加わったが、間もなくオスマンに対して反乱を起こした。1735年、カヘティ=カルトリの支配がオスマン朝トルコから[[アフシャール朝]]ペルシャに変わると、シャンシェは[[{{仮リンク|ギヴィ・アミラフヴァリ]]|ka|გივი ანდუყაფარის ძე ამილახვარი}}[[{{仮リンク|ヴァフシティ・アバシゼ]]|ka|ვახუშტი აბაშიძე}}らとともにペルシャの征服者に対する大規模な蜂起を主導した。シャンシェは[[{{仮リンク|クサニ公国]]|ka|ქსნის საერისთავო}}の堅固な要塞を拠点に2年に渡って戦闘を続け、時には直接攻撃で、時にはゲリラ攻撃によって、ペルシャに大きな損害を与えた。
 
しかしながら1737年、ついにシャンシェは[[{{仮リンク|イコルタ]]|ka|იკორთა (ერედვის მუნიციპალიტეტი)}}でペルシャに敗北した。イメレティはペルシャ軍により掃討され、シャンシェは[[ロシア帝国]]へと逃れた。シャンシェはヴァフタング6世の嫡男[[{{仮リンク|バカル]]|ka|ბაქარი}}をカルトリに帰還させる動きを支援し、ロシア皇帝にも協力を働きかけたが、バカルを帰還させることはできなかった。シャンシェはカルトリの自領に戻り、アフシャール朝との戦いを続けた。
 
1739年、シャンシェの弟[[{{仮リンク|イアセ・クララハシ]]|ka|იასე ყულარაღასი|イアセ}}の妻ケテヴァンが、アラグヴィ公[[{{仮リンク|バルジム (アラグヴィ公)|ka|ბარძიმ არაგვის ერისთავი|label=バルジム]]}}の弟ウトルティから性的暴行を受けた。シャンシェは報復として[[{{仮リンク|レケビ]]|ka|ლეკები}}12,000人を雇い、[[{{仮リンク|アナヌリ城]]|ka|ანანურის ციხე}}を包囲した([[{{仮リンク|アナヌリの戦い]]|ka|ანანურის ბრძოლა}})。バルジムは危害を及ぼさないことを誓い、降伏したが、ウトルティは『シェウポヴァルシ』の塔に籠城し、戦いを続けた。これに激怒したシャンシェはバルジムに死刑を宣告したうえでアナヌリ城に突入し、場内の居住施設を襲撃し、塔を焼き払った。ウトルティとその家族は、炎に焼かれて死亡した。
 
当時、レケビの部族はカルトリ地方に対して度重なる襲撃を行っていた。そのためアナヌリの戦いにおいてシャンシェがレケビを味方として使ったことは、カルトリの人々にとって受け入れ難いものであった。かつての戦友[[{{仮リンク|ギヴィ・アミラフヴァリ]]|ka|გივი ანდუყაფარის ძე ამილახვარი}}もシャンシェに対立した。当時トビリシに居住していた息子イオアネもまたシャルシェを裏切ったが、シャルシェは逆にイオアネの地位と俸給を奪い取った。
 
1740年、アフシャール朝ペルシャの軍勢がクサニ公国を襲撃し、シャンシェは妻や子供たちとともに[[{{仮リンク|アツリスヘヴィ要塞]]|ka|აწრისხევის ციხე}}へと逃れた。シャンシェには軍事的な抵抗手段がなく、闇夜に紛れて[[{{仮リンク|ボルジョミ渓谷]]|ka|ბორჯომის ხეობა}}へと移動し、そこから[[アハルツィヘ]]の[[パシャ]]のもとへと避難した。その後、ペルシャの[[ナーディル・シャー]]およびオスマン帝国当局の指示により、アハルツィヘのパシャはシャンシェをペルシャに引き渡した。ナーディル・シャーはシャンシェを[[デルベント]]に収容し、その後[[マシュハド]]の砦に投獄した。シャンシェは反逆の罪により、両目抉りの罰を受けた。1745年、全盲となったシャンシェはトビリシに送還され、2年を過ごした。1747年、シャンシェは再びクサニ公の地位を授かり、荘園領地もシャンシェの手に返却された。シャンシェは後にカヘティ王国の[[{{仮リンク|エレクレ2世]]|ka|ერეკლე II}}および[[{{仮リンク|テイムラズ2世]]|ka|თეიმურაზ II}}と敵対するようになった。シャンシェは反逆罪により逮捕され、1753年にトビリシの獄中で死亡した。
 
== 参考文献 ==
* {{GSEქსე|10|683}}
* {{Cite book|title=საქართველოს ისტორიის ნარკვევები|volume=4|year=1973|url=http://dspace.nplg.gov.ge/handle/1234/2957|location=[[თბილისი]]}}
* [http://dspace.nplg.gov.ge/handle/1234/2957 საქართველოს ისტორიის ნარკვევები, ტ. 4] თბილისი 1973;
* ''გვრიტიშვილი დ.'', ფეოდალური საქართველოს სოციალური ურთიერთობების ისტორიიდან (ქართლის სათავადოები) თბილისი 1955;
* {{Cite book|author=[[გერონტი ქიქოძე|ქიქოძე, გ.]]|title=ერეკლე II|url=http://dspace.nplg.gov.ge/handle/1234/316338|location=[[თბილისი]]|publisher=სახელგამი|year=1942|pages=56–60}}
*{{Книга}}
 
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