「平沢貞通」の版間の差分

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→‎脚注: 北海道放送2003
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* [[1912年]]、旧制[[北海道札幌南高等学校|札幌中学校]]を経て<ref>「われ、死すとも瞑目せず」、203頁。</ref>、同[[北海道小樽潮陵高等学校|小樽中学校]]卒業。
* [[1913年]]、日本水彩画会結成に[[石井柏亭]]・[[磯部忠一]]らとともに参画。
* [[1914年]]、[[二科展]]ができ平沢三味二(さみじ。当時の雅号)名義で出品して入選。これが機縁となり、[[横山大観]]の門を叩き、横山から「大暲」という雅号をもらう<ref name="遠藤2000-1"/>。交友を深めた作家の[[有島武郎]]も、平沢への手紙の中で画家としての優れた才能を認めた<ref> name="北海道放送のドキュメンタリー番組「誤判の生贄 ~魂の画家 死刑囚・平沢貞通~」2003年<"/ref>。
* [[1916年]]、結婚<ref name="遠藤2000-1"/>。平沢は妻とのあいだに二男三女をもうけた。
* [[1919年]]、第1回[[日展|帝展]]に出品。