「ヤロスラフ・フセヴォロドヴィチ (チェルニゴフ公)」の版間の差分

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[[1167年]]、[[1188年]]に[[ポロヴェツ族]]に対する遠征に参加した。[[1185年]]には[[ノヴゴロド・セヴェルスキー公国]]に援軍を派遣した。
 
ヤロスラフがチェルニゴフ公位にあった時期の主要な出来事としては、[[ルーシ内戦 (1195年 - 1196年)|1195年から翌年にかけてのルーシ内戦]]が挙げられる。その前年の[[1194年]]に、ヤロスラフの兄で[[キエフ大公]]位にあった[[スヴャトスラフ・フセヴォロドヴィチ (キエフ大公)|スヴャトスラフ]]が死亡し、キエフ大公位並びに[[キエフ公国]]は[[リューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公)|リューリク]]が継承した。1195年、ヤロスラフらオレグ家[[:ru:Ольговичи|(ru)]]は、[[ポロツク公国]]のポロツク・イジャスラフ家[[:ru:Изяславичи Полоцкие|(ru)]]と同盟を結び、スヴャトスラフの子のオレグ[[:ru:Олег Святославич (князь стародубский)|(ru)]]を長とする軍団を組織すると、リューリク側に立つ[[スモレンスク公国]]へ侵攻した([[ルーシ内戦 (1195年 - 1196年)]])。連合軍はこの遠征で、オレグの子のダヴィド[[:ru:Давыд Ольгович|(ru)]]が戦死したが、スモレンスク軍の総指揮官・[[ムスチスラフ3世|ムスチスラフ]]を捕虜とした。一方、キエフ大公リューリク自身と、[[ウラジーミル・スーズダリ大公国|ウラジーミル大公]][[フセヴォロド3世|フセヴォロド]]とを長とするリューリクらモノマフ家[[:ru:Мономаховичи|(ru)]]は、オレグ家に対し、[[キエフ]]の継承権[[:ru:Лествичное право|(ru)]]を放棄し、[[ドニエプル川]]左岸の割譲を要求した。ヤロスラフらオレグ家はこれを拒否し、リューリクの侵攻に対する駐屯部隊を[[チェルニゴフ]]に配備し、[[スモレンスク公国]]・[[ウラジーミル・スーズダリ大公国|ウラジーミル大公国]]軍の侵入が予想される道々に防線を構築し、自領・自権力の守備を図った<ref>中沢敦夫「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈 (9) ―『キエフ年代記集成』(1196 ~ 1199 年)」富山大学人文学部紀要第68号、2018年8月。p222</ref>。
 
[[1198年]]に死亡し、チェルニゴフ公位は[[ノヴゴロド・セヴェルスキー公]][[イーホル・スヴャトスラーヴィチ|イーゴリ]]が継承した。