「帝銀事件」の版間の差分

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* 判決確定から30年が経過した[[1985年]](昭和60年)に、支援グループは[[刑法 (日本)|刑法]]31条に定められた[[刑の時効]]の規定(刑の確定後、一定期間刑の執行を受けない場合は時効が成立する)を根拠として平沢の死刑が時効であることの確認を求める[[人身保護法 (日本)#請求|人身保護請求]]を起こしたが、[[日本の裁判所|裁判所]]は「拘置されている状態は[[逃亡]]と異なり、執行を受けられない状態ではない」としてこれを退けた。
* 弁護団の団長:初代は山田義夫、2代目は磯部常治、3代目は[[中村高一]]、4代目は[[遠藤誠 (弁護士)|遠藤誠]]([[2002年]]([[平成]]14年)1月22日死去)、5代目は保持清が務めた。
 
かつて弁護人の正木亮が述べたように、平沢が自分の無実を証明する方法は簡単だった。帝銀事件直後に預金した謎の大金を誰からいつもらったのか、ひとこと明かせば即座に冤罪を晴らせた。しかし平沢はそうしなかった。弁護士や支援者だけに内々に打ち明けることもできなかった。平沢の長女はテレビ番組のインタビューで「(平沢が)シロにしろクロにしろね、あんだけ世間を騒がしたんですからね、やっぱり誰だっていい思いはしてませんよね・・・」と述べた<ref>北海道放送「誤判の生贄 ~魂の画家 死刑囚・平沢貞通~」(プロデューサー:五十嵐浩二、日本民間放送連盟賞 2003年 テレビ報道・優秀賞受賞)</ref>。
 
最終的に、歴代[[法務大臣]]も死刑執行命令に署名しないまま、[[1987年]](昭和62年)[[5月10日]]、午前8時45分、平沢は[[肺炎]]を患い[[八王子医療刑務所]]で病死した。95歳没([[平沢貞通#帝銀事件以後]])。