「帝銀事件」の版間の差分

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→‎犯行の動機: 青酸カリの出所
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ことを挙げ、「とにかく、当時は、全く暗い、滅茶苦茶の時代」「その中で、大家といわれた絵かきが、何年たっても自分の絵が売れず、金もできず、家の者からは建築を迫られている。そういう戦争直後という異常な時代の、異常な犯罪」だと述べた(高木1981<ref name="野村1981"/>、p.180)。
 
:・平沢が事件で使った青酸カリの出所について、高木一は、満洲から日本に戻ってきた平沢の家族が自宅に持っていたものであることをつきとめていた。「当時満州から日本人が引き揚げてくるのには、いろんな困難があり、万一を考えて青酸カリをもっていたんですね。その人は引き揚げの途中で、朝鮮のどこどこで焼き捨てたと主張していましたが、その人の友だちは、その人が持って帰っていることをみているんです。分量もわかっていました。」(高木1981<ref name="野村1981"/>、p.181)
:・「妻に対して虚勢を張り」云々について、平沢の妻は、高木によって「犯罪動機の温床のようにいわれて居る家庭の状況」の真実について、自著の中で詳述した<ref>平沢マサ『愛憎を越えて―宿命の妻・平沢マサの手記』(都書房、1949年)</ref>。
:・「戦争直後という異常な時代の、異常な犯罪」という点について、作家の[[坂口安吾]]はエッセイ「[https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42824_26495.html 帝銀事件を論ず]」の中で、平沢が逮捕される以前にすでに次のように指摘した。戦争末期は、中国戦場の軍人は衣食住が保証されていたが、銃後の自分たち庶民は空襲と飢餓という前線以上に苛烈な「戦地」を体験し、人心がすさんだ。戦後とは名ばかりで昭和23年(1948年)の今も「街は焼け野である。人は雑居し、骨肉食を争い、破れ電車に命をかけて押しひしめいて」おり「戦争」は続いている。「私が帝銀事件に感じるものは、決して悪魔の姿ではない。バタバタと倒れ去る十六名の姿の中で、冷然と注射器を処理し、札束をねじこみ、靴をはき、おそらく腕章をはずして立ち去る犯人の姿。私は戦争を見るのである」。坂口は犯人像を戦地帰りの元軍人と限定しなかったことに注意。
:・平沢は冤罪で真犯人は平沢ではなく、犯行の目的も金品ではなかった、とする主張もある([[帝銀事件#バイナリー方式説|#バイナリー方式説]])。