「福羽逸人」の版間の差分

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1890年[[農商務省 (日本)|農商務省]]技師補に就任、[[東京農林学校]](後の[[帝国大学農科大学]])兼務となり、はじめて[[園芸学]]を担当した。1891年(明治24年)から御料局技師として[[内匠寮]]勤務。
 
1896年(明治29年)、[[宮内省]][[式部官]]を兼務し、[[伏見宮貞愛親王]]と[[ロシア帝国|ロシア]]へ随行。これもロシア皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]の戴冠式に親王が参列することを聞き、その随員となって、ロシアのほか欧州皇室の苑園を視ようと目論んだものである。政府は特命全権大使として[[山縣有朋]]を派遣することにしていたので、既に面識があった福羽のごり押しにも好都合だったと思われるが、この福羽の要求は当時上司として積極的に支援していた岩村御料局長でさえ尻込みし、福羽はやむなく内務大臣になっていた前任の品川弥二郎に助けを求めた結果、最終決裁者への請願の道を与えられた。その相手は奇しくも、1892年(明治25年)8月から第5代内閣を率いていた伊藤博文であった。この時も福羽は伊藤の「はよーそれ むつかしき」と否定する言葉をさえぎり、目的をるる陳述した結果、後に[[田中光顕]]宮内大臣から随員として内定した旨の通知を受け取ったという。
 
1897年(明治30年)には[[新宿御苑|植物御苑]]掛長になり、[[ルソン島]]・[[マニラ]]へ調査出張する。1899年(明治32年)にロシアとフランスへ出張、翌1900年(明治33年)にも[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万国博覧会]]へ出展園芸物の審査にフランスの[[パリ]]に出向き、博覧会園芸万国会議に列する。その合間にベルサイユ園芸学校校長[[アンリ・マルチネ]]に御苑の改造の相談と計画指導を依頼している{{要出典|date=2020年8月}}。和洋の様式が混在した造園として面積18万余坪を占める[[新宿御苑]]は、2年後から5年間かけて完成させる。十数年前から多種多様の内外樹草を育成準備したため、わずかな経費で豪華にして優麗な大庭園に改造した。