「ゲオルク・フィリップ・テレマン」の版間の差分

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同時代の作曲家であった[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]]とは[[ライプツィヒ大学]]時代からの友人で、頻繁に手紙のやり取りをしていた<ref>ちなみにテレマンは[[園芸]]の趣味もあり、ヘンデルは移住先のイギリスから手紙と一緒にたびたび珍しい植物を送ってテレマンを喜ばせていたという。<!--テレマンの作曲家としての業績とは直接関係のないエピソードであるため、脚注での記述にとどめるのが適当と判断されます。--></ref>ほか、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]とも親密な交友関係にあり、バッハの次男[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ|カール・フィリップ・エマヌエル]]の[[代父母|名付け親]]にもなった<ref>バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの[[ミドルネーム]]にある「フィリップ」は、テレマンの名前にちなんだものである。</ref>。また、1750年にバッハが死去した時には、バッハの業績を最大限に称える追悼の言葉を送っている<ref>テレマンがバッハの死後に送った追悼の言葉(日本語訳)は以下の通り。「今は亡きバッハよ!そなたの見事なオルガン演奏は、ひとりそなたに“偉大”という気高き呼称をもたらせり。そしてまた、そなたが筆にしたもの、最高の芸術表現を喜ぶ者あり、はたまた羨望の念もて眺める者ありき」。</ref>。
 
彼の音楽様式には、20歳代~30歳代に触れたフランス<ref name="france" />・イタリア<ref name="italy" />・ポーランド<ref name="poland" />の[[民族音楽]]、特に[[舞曲]]からの影響があり、ドイツの様式も含めてそれらを使いこなし、[[ロココ]]趣味の作風も示した<ref>井上和男、テレマンの項目。</ref>。彼は86歳と長生きだったため、晩年は[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]の青年時代などと重なり、高齢でも創作意欲が衰えなかった。[[トリオソナタ]]の編成で『ディヴェルティメント』と書かれた晩年の作品もあり、常に新しい音楽傾向の先頭に立ち続けた。日本ではテレマンへの注目も高く、[[コレギウム・ムジクム・テレマン室内オーケストラ|日本テレマン協会]]が1969年に発足(当時は大阪テレマン協会)して現在に至っている。
 
== 生涯 ==