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[[File:Junichi Tsuda.jpg|thumb|200px|津田純一]]
'''津田 純一'''(つだ じゅんいち、[[1850年]][[6月21日]]([[嘉永]]3年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[1924年]]([[大正]]13年)[[1月23日]])は、明治期の[[教育関係人物一覧|教育者]]、[[法学者]]、[[官僚]]。
 
== 経歴 ==
[[中津藩]]士・[[津田耕烟]]の子。[[慶應義塾]]に学び、藩主[[奥平昌邁]]に随行して渡米、[[カナーバ大学]]に入った。帰朝後、1879年(明治12年)9月に[[大学予備門]]の英語教員として就職したが、このころ[[慶應義塾夜間法律科]]講師に転ずる。夜間法律科閉鎖後、一時、[[外務省]]へ移ったが間もなく[[明治十四年の政変]]で退職した。1881年(明治14年)1月、京浜在住の維持社員が演説館に集まって慶應義塾仮憲法を定め、理事委員を選挙したことがあるが、津田もその一人として選ばれている。その後、[[東奥義塾高等学校|東奥義塾]]の校長に任ぜられて赴任、さらにひきつづき、石川県専門学校教授、[[三重師範学校]]長、[[兵庫師範学校]]校長、[[大分県立大分上野丘高等学校|大分中学校]]長などを歴任した。一時、韓国興農会社を経営したこともあったが、明治の末、ふたたび教育界に復帰し、[[大分県下毛高等女学校]]長として十数年在職した。1924年(大正13年)、75歳で死去した。
 
== 参考文献 ==