「プシェムィシルの戦い」の版間の差分

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== 概要 ==
プシェムィシリは、[[第一次世界大戦]]まで[[オーストリア・ハンガリー帝国]]領となっていた。[[1910年]]現在で、人口5400054,000の内[[ポーランド人]]が47 %、[[ウクライナ人]]が22 %、[[ユダヤ人]]が30 %となっていた。戦後、帝国崩壊に伴うこの町の争奪戦が発生することになった。
 
1918年[[11月1日]]、町にはポーランド人、ユダヤ人、ウクライナ人による共同の地方政府が立ち上げられた。しかし、西ウクライナ国民共和国の軍事組織である[[ウクライナ・ハルィチナー軍]](UHA)は、[[11月3日]]、ペレムィーシュリはウクライナ人居住地であるとして進駐し、共同政府の要人を逮捕し町東半分に統治体制を布いた。ウクライナ・ハルィチナー軍は、[[義勇兵]]や[[学生]]によって編成されていた小規模のポーランド自衛軍を破った。一方、同地を自国領と考える[[ポーランド軍]]は、[[サン川]](スャン川)を挟んで町の西側を占拠し、これに対峙した。
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[[11月10日]]には、ポーランド軍がウクライナ側に[[最後通牒]]を突きつけた。しかし、ポーランド軍はウクライナの返答を待たずに11日には渡河作戦を実行し、2日間の戦闘ののち装備に劣るウクライナ・ハルィチナー軍を撃破した。
 
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[[en:Battle of Przemyśl]]