「カーネーション革命」の版間の差分
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植民地を維持するための戦費は国費の40%に達したが成果はなかったばかりか、植民地から流入する住民により[[失業率]]が悪化。[[スラム街]]が拡大し、国民の[[文盲]]率は38%に達するなど国力は低下し続けた<ref>ポルトガルの春みたび 革命後の選択『朝日新聞』1976年(昭和51年)4月28日、13版、7面</ref>。
[[1968年]]にサラザールが病に倒れ、後継の[[マルセロ・カエターノ]]は当初[[民主化]]を進める意思を見せたものの、すぐに独裁体制を維持する姿勢に翻意した。主として[[ポルトガル領ギニア]]で泥沼の植民地戦争に服務し、危機感を抱いた国軍の青年将校たちは、[[1973年]]9月に{{仮リンク|オテロ・サライヴァ・デ・カルヴァーリョ|en|Otelo Saraiva de Carvalho|label=オテロ・デ・カルヴァーリョ}}を中心として「
== 決起 ==
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