「仲哀天皇」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m →‎伝承: リンクを改善、重複リンクを除去
m リンクの改善など
40行目:
 
== 事績 ==
容姿端正、[[身長]]一丈<ref>『日本皇帝系図』続群書類従第5輯上系図部p.49。昭和34年5月15日訂正3版</ref>。『[[日本書紀]]』によれば、叔父の稚足彦天皇([[成務天皇]])に嗣子がなく成務天皇48年3月1日に31歳で立太子。皇太子13年を経て先帝崩御二年後の1月に即位。白鳥となって天に昇った父の日本武尊([[景行天皇]]41年に30歳で死去)を偲んで諸国に白鳥を献じることを命じたが、異母弟の[[蘆髪蒲見別王]]が越国の献じた白鳥を奪ったため誅殺したとある。即位2年1月11日、氣長足姫尊(成務天皇40年誕生)を立后([[神功皇后]])。2月、[[敦賀|角鹿]]の笥飯宮(けひのみや)へ。同月、淡路に屯倉を設ける。3月、[[紀伊国]]の德勒津宮(ところつのみや)へ。同地で熊襲再叛の報を聞き親征開始。6月、[[長門国|穴門]]の豊浦津へ至る。
 
即位8年、[[熊襲]]討伐のため皇后とともに[[筑紫]]に赴き、[[憑依|神懸り]]した皇后から託宣を受けた{{efn2|通説ではこの神は[[住吉三神|住吉大神]]ではないかとされるが、地元にある神功皇后が仲哀天皇に祟った神を祀ったとされる[[天照皇大神宮]]では[[天照大神]]が祀られている。}}。それは「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある[[新羅]]を戦わずして得るだろう」という内容だった。しかし高い丘に登って大海を望んでも国など見えないため、この神は偽物ではないかと疑った。祖先はあらゆる神を祀っていたはずであり、未だ祀ってない神はいないはずでもあった。神は再度、皇后に神がかり「おまえは国を手に入れられず、[[妊娠]]した皇后が生む皇子が得るだろう」と託宣した。
 
これを無視して構わず熊襲を攻めたものの空しく敗走。翌年2月に急死して神の怒りに触れたと見なされた<ref name=kadowaki594/>。『[[日本書紀]]』内の一書(異説)や『[[天書|天書紀]]』では熊襲の[[矢]]に当たり、橿日宮(訶志比宮、現[[香椎宮]])で崩御したとされる。遺体は[[武内宿禰]]により海路で穴門(穴戸、現在の[[下関海峡]])を通って豊浦宮(現[[下関市]])で[[殯]]された。
 
== 系譜 ==
68行目:
* 仲哀天皇2年
** 1月、[[神功皇后|氣長足姫尊]]を立后
** 2月、[[敦賀|角鹿]]の笥飯宮(けひのみや)へ。淡路に屯倉を設ける
** 3月、[[紀伊国]]の德勒津宮(ところつのみや)へ。同地で熊襲再叛の報を聞き親征開始。
** 6月、[[長門国|穴門]]の豊浦津へ
81行目:
== 宮 ==
[[ファイル:Site of former Kashii Shrine 2.jpg|thumb|220px|[[香椎宮]]・大本営御旧蹟]]
『[[日本書紀]]』では行宮のみが記される。即位2年2月に先帝の宮を出て[[敦賀|角鹿]]の笥飯宮(けひのみや)に滞在。3月に[[紀伊国]]で德勒津宮(ところつのみや)に滞在。6月から熊襲を討つため[[長門国|穴門]]豊浦宮に滞在。即位8年、[[筑紫国|筑紫]]橿日宮に滞在。『[[古事記]]』では以下の2つが宮とされるが、いずれも『[[日本書紀]]』では行宮である。
 
* [[長門国|穴門]]豊浦宮(あなとのとゆらのみや、[[山口県]][[下関市]]長府宮の内町の[[忌宮神社]]が伝承地)
96行目:
 
=== 岡浦の航海 ===
熊襲征伐の際、熊鰐という者が[[周防国|周芳]]の佐波([[山口県]][[防府市]]佐波)で天皇を出迎えた。船首には大きな賢木(さかき)が立てられており上枝に白[[銅鏡]]、中枝に[[十束剣|十握剣]]、下枝に[[八尺瓊勾玉|八尺瓊]]が掛かっていた。豊浦津から筑紫に入る天皇に熊鰐は六連島、藍島、逆見海といった魚や塩がとれる海域を献上して水先案内を行った。しかし山鹿岬から岡浦の水戸(みなと)に入ったところで船が進まなくなってしまった。熊鰐に聞くと、この浦のほとりにいる大倉主、菟夫羅媛(つぶらひめ)という男女の神の意志だという。そこで[[宇陀|菟田]]出身の伊賀彦という舵取りに祭らせると船は無事進んだ。後から来た[[神功皇后|皇后]]もまた船が進まず熊鰐が導いた。これらの功から熊鰐は岡県主となった。
 
また天皇が筑紫に入る際に五十迹手(いとて)という者が[[長門国|穴門]]の引嶋で出迎えた。[[周防国|周芳]]の熊鰐のときと同じく船主には大きな賢木(さかき)が立てられており上枝に[[八尺瓊勾玉|八尺瓊]]、中枝に白[[銅鏡]]、下枝には[[十束剣|十握剣]]が掛かっていた。[[八尺瓊勾玉|八尺瓊]]は智謀、白銅鏡は見識、[[十握剣]]は武力を象徴していると説明された天皇は五十迹手を「伊蘇志(いそし)」「よくやった」と褒めたたえた。そこで五十迹手の治める国を伊蘇国といい、訛って[[伊都国]]という。その後、天皇は無事に[[奴国|灘県]]に到着して[[香椎宮|橿日宮]]を造営した。
 
賢木([[榊]])に神器を掲げて貴人を出迎える事例は[[景行天皇|景行紀]]にも書かれている。熊鰐と同じく[[周防国|周芳]]の佐波で天皇を出迎えた神夏磯媛(かむなつそひめ)の船首には磯津山(しつのやま)の賢木が立てられており上枝に八握剣、中枝に[[八咫鏡]]、下枝に八尺瓊が掛かっていた。[[神代 (日本神話)|神代]]にも[[天岩戸]]に籠る[[天照大神]]を呼び出すため[[太玉命]]と[[天児屋命]]が天香久山から眞坂樹(まさかき)を掘り出して上枝に八坂瓊、中枝に[[八咫鏡]]、下枝に[[御幣|和幣]]を掛けたという話がある。