「エヒタナハ」の版間の差分
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かつて町の中を流れていた[[シュール川]]([[:en:Sauer]])は今ルクセンブルク=ドイツ国境となっているが、[[ローマ帝国]]末期と[[メロヴィング朝]]期には、これは全て辺境領ではなかった。[[60年]]/ [[70年]]頃に広壮な邸宅(Palastvilla; Herrenhaus)が建設された。この遺構は[[1975年]]/ [[1976年]]の発掘調査によって確認されている。邸宅は[[4世紀]]に至るまで拡張を続け、最盛期には124x72m、地階約70室であった。<ref>''Lexikon des Mittelalters''. Bd. III. München und Zürich: Artemis 1986 (ISBN 3-7608-8903-4), Sp. 1542. </ref>
[[697年]]/[[698年]]、[[フランク族|フランク]]王[[ダゴベルト3世]]の娘で[[トリーア]]のエーレン( Trier-
エヒタナハは、[[カール大帝]]の一族から庇護を受け続けた。[[859年]]から[[971年]]の間、トリーア司教の世俗的な規律によって追われ、[[1017年]]にはウィリボード時代の建物が焼け落ちたが、左右対称の塔を備えた[[ロマネスク様式]]のバシリカは、今もウィリボードの墓のある[[納骨堂]]を中に備えている。修道院の図書館と写字室(Echternacher Skriptorium;8世紀と11世紀に最盛期)は優れた美術品を所有制作していた。<ref>Hans Holländer: ''Kunst des frühen Mittelalters''. Stuttgart: Chr. Belser Verlag 1969 (Belser Stilgeschichte Band V), Abb. 6 (S. 18) und S. 140, Abb. 120 (S. 153) . </ref> エヒタナハの町は修道院の外壁周囲で形作られた。町が都市特権を得たのは[[1236年]]であった。[[1737年]]、修道院は端正な[[バロック様式]]で再建された。[[1797年]]、修道士たちは追放され、修道院の有名な図書館とその所蔵物は競売にかけられた。図書館が所有していた初期の写本の一部は、[[パリ]]の[[フランス国立図書館]]にある。修道院内には磁器工房がつくられていた。町は、鉄道ができ観光客がやってくるまで衰退していた。[[1815年]]に[[ルクセンブルク]]に帰属した。<ref>Gerhard Köbler: ''Historisches Lexikon der deutschen Länder''. 6. Aufl. München: C.H.Beck 1988 = Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1999, S. 143.</ref>
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