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'''小笠原 氏興'''(おがさわら うじおき、[[享禄]]2年([[1529年]]) - [[永禄]]12年[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]([[1569年]][[7月24日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。名は氏清とも。通称は彦五郎、与八郎。官位は美作守。
 
[[信濃国|信濃]]守護・[[小笠原長時]]の従兄弟である[[小笠原春義]](春儀、春茂)の息子で、高天神小笠原家の当主。子に[[小笠原信興]](長忠、氏助、氏儀)がいる。母は[[今川氏親]]の娘とされるが、当時の記録から小笠原氏に嫁いだ氏親の娘の存在は確認できないため、創作とする説が有力である<ref>黒田基樹 『北条氏康の妻 瑞渓院』 平凡社、2017年12月。ISBN 978-4-582-47736-8 pp. 53-55.</ref>
 
氏興は当初[[今川義元]]に仕えていた。義元が[[桶狭間の戦い]]で[[尾張国|尾張]]の[[織田信長]]に攻められ戦死したため、義元嫡子・[[今川氏真]]が家督を嗣ぐ。氏真は凡庸な当主だったために[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信玄]]に[[甲相駿三国同盟]]を破棄されて[[駿河国|駿河]]に攻められ、さらに[[三河国|三河]]の[[徳川家康]]までもが[[遠江国|遠江]]に侵攻して来ると、永禄12年([[1569年]])氏興は弟の[[小笠原清広|清広]]、[[小笠原義頼|義頼]]と共に、家康に内応して主君氏真が籠城する[[掛川城]]を[[袋井市|袋井]]方面から攻撃し戦功を上げた。氏真はかなわず掛川城を撤退し、小田原の[[後北条氏]]の元に亡命した。
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その後は家康に仕えたが、同年に[[馬伏塚城]]にて病死した。享年41。法名は泰翁。妻は[[三浦氏]]。<!---高天神小笠原家の家督は末弟の[[小笠原義頼]]が継承した。 --->
 
== 関連項目脚注 ==
<references />
*[[小笠原氏]]
 
== 参考文献 ==
*『[[寛政重修諸家譜]] 巻第1241』
 
== 関連項目 ==
*[[小笠原氏]]
 
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