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[[長元]]5年([[1032年]])教通の子の[[藤原信長|信長]]の[[元服]]に際して加冠役を務める。それまでも[[藤原妍子|妍子]]、[[藤原威子|威子]]と倫子腹の異母姉妹の[[中宮]]に[[中宮職|中宮権亮]]・中宮権大夫として仕えていたが、長元10年([[1037年]])[[後朱雀天皇]]の中宮に[[三条天皇]]の皇女・[[禎子内親王]](のち陽明門院)が決まると、中宮大夫に任じられてこれに仕える。既に頼通の養女・[[藤原嫄子|嫄子]]が天皇の新しい中宮としての入内が確定しているにもかかわらず、あえてその対立陣営に立った。加えて禎子内親王所生の尊仁親王(のち[[後三条天皇]])の後見人も引き受けることになった。[[寛徳]]2年([[1045年]])に後朱雀天皇が重態に陥ると、能信は天皇に懇願して、尊仁親王を親仁親王(のち[[後冷泉天皇]])の[[皇太子#皇太弟・皇太甥|皇太弟]]にするよう[[遺詔]]を得たとされる<ref>『[[今鏡]]』</ref>。
 
だが、世間では頼通・教通兄弟がそれぞれ娘を後冷泉天皇の妃にしており、男子が生まれれば[[皇太子]]は変更されるだろうと噂され、春宮・尊仁親王やその[[春宮坊|春宮大夫]]となった能信への眼は冷たいものがあり、親王が成人しても娘を入内させる公卿はなかった。やむを得ず自分の養女(妻[[藤原祉子|祉子]]の兄である[[藤原公成]]の娘)である[[藤原茂子|茂子]]を立太子に際し添臥として入内させ、「実父の官位が低すぎる」という糾弾を能信が引き受けることで皇太子妃不在という事態を回避した。尊仁親王と茂子は仲睦まじく多くの子女を儲け、それが後世の[[閑院流]]の繁栄に繋がっていく
 
教通の関白職を獲得するまでの忍従、特に頼通に対して従順であることは、ほとんど卑屈の域に達するものであり、頼通が太政大臣に昇進したことの祝賀に際して、左大臣教通は頼通にひざまづいて礼をしたという。これを聞きつけた能信は「大臣ともあろう者がひざまづいて礼をするなど聞いたこともない」と批判した。これに対し教通は「自分は道長から「頼通を父と思え」と言われたのだ。父に対する礼儀としてひざまづいて礼をするのは当たり前のことだ。能信は道長からそんなことを言われたことはないだろう」と、死ぬまで権大納言どまりで関白など望むべくもなかった能信を逆に皮肉ったという。