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'''藤原 師通'''(ふじわら の もろみち)は、[[平安時代]]後期の[[公卿]]。[[藤原北家]]、[[関白]]・[[藤原師実]]の嫡男。[[官位]]は[[従一位]]、[[関白]]、[[内大臣]]。
 
== 経歴 ==
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[[院政]]が制度として確立していない当時、成人の天皇と関白が緊密に提携していれば、上皇が権力を振るう余地は少なかった。師通は「おりゐのみかどの門に車たつ様やはある(退位した天皇の御所の門に、牛車が立ち並ぶことなどあろうか)」と公言したという<ref name="ik">『[[今鏡]]』</ref>。師通は[[大江匡房]]に学問を学び、匡房に代表される伝統的な実務官僚層を掌握する。一方で、新興の[[院近臣]]勢力に対しては警戒感を示し、[[藤原顕季]]の邸宅を身分不相応だとして破壊したという話が伝わっている<ref>『吉部秘訓抄』</ref>。また、上皇が近臣[[受領]]を[[受領功過定]]を経ずに重任させようとしたのを制止している。その政治は「[[嘉保]]・[[永長]]の間、天下粛然」<ref>『[[本朝世紀]]』</ref>と賛美された。
 
嘉保2年([[1095年]])[[美濃国#国司|美濃守]]・[[源義綱]]の[[流罪]]を求める[[延暦寺]]・[[日吉大社|日吉社]]の[[強訴]]に対して、要求を拒否した上で[[源頼治]]を派遣して大衆を撃退した。この際に矢が山僧・[[神人]]に当たり負傷者が出たため、延暦寺は[[朝廷]]を呪詛した<ref>「山僧五壇法を行い國家を咒咀し奉る」(『[[百錬抄]]』嘉保2年11月条)</ref>。承徳3年(1099年)師通は悪瘡を患い38歳という働き盛りの年齢で急死する。師通の政権は僅か5年で終焉し、延暦寺は神罰が下ったと喧伝した<ref>『[[平家物語]]』「願立」、『[[愚管抄]]』巻4</ref>。またこれとは別に、[[白河天皇|白河上皇]]の命による真言僧の呪詛があったとも伝わる<ref>『小野類秘鈔』巻第三(上川通夫『日本中世仏教史論』、29頁)</ref>。
 
後継者の[[藤原忠実|忠実]]は22歳と若く、官職もいまだ権大納言で関白となる資格にも欠けていた。引退していた師実にも忠実を支える余力はなかった。師通が有能であっただけにそれを失った摂関家は院に対する従属を余儀なくされ、その勢力を大きく後退させていく。