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通説では、道長が[[源倫子]]と結婚した翌年の[[永延]]2年([[988年]])に明子と結婚したとされているが、近年では倫子と結婚する以前に既に明子と結婚していたという説が出されている<ref>服藤早苗「源明子」(『日本女性史大辞典』(吉川弘文館、2008年) ISBN 978-4-642-01440-3)</ref>。だが、倫子の父・[[源雅信]]は当時現職の[[一上]]であり、かつ道長を自分の[[土御門殿]]に居住させたことにより倫子が嫡妻とみなされ、明子は「妾妻」とみなされていた(『[[小右記]]』長和元年6月29日条)。
 
倫子は道長の最初の妻であると同時に当時の現職大臣の娘で道長の出世への助けになったのに対し、明子の父源高明はかつての権力者ながらもすでに故人で、しかも安和の変で流罪になった人物であった。そのため、倫子所生の子供たちは嫡子扱いを受けて出世目覚しい昇進を遂げたのに対して、明子所生の子供たちはそれより下の出世に限定され、娘も入内して中宮・皇后に序されることはなかった。それでも倫子とほぼ同じペースで子女を儲けていることから邸宅の訪問も頻繁で夫婦仲は良好であり、明子もまた子息の栄達に拘らない人物だと推察される。明子の子供達は嫡兄・[[藤原頼通]]と協調して自己の出世を図ろうとしたが、能信のみはそれを拒絶し公然と頼通と口論して父道長の怒りを買うことすらあったという。能信は即位前の[[後三条天皇]]を強く庇護し、その後の院政による摂関政治凋落に繋がっていく。
 
尊子の孫娘[[藤原賢子]]は[[白河天皇]]の寵妃として[[堀河天皇]]の国母となった。また頼宗の孫娘[[藤原全子]]が頼通の孫[[藤原師通]](尊子の孫でもある)に嫁いで嫡男[[藤原忠実|忠実]]を生んだ。そのため女系ながらも、明子の血筋は皇族、および五[[摂家]]に繋がっている。