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[[File:Iacatra year 1605-1608 drawn1675-1725.jpg|thumb|right|バタヴィア開城前のジャカルタ]]
 
'''バタヴィア''' (Batavia) は[[インドネシア]]の首都[[ジャカルタ]]の[[オランダ領東インド|オランダ植民地]]時代の名称。[[インドネシア語]]では通常バタフィアと発音される。
 
== 解説 ==
[[ジャワ島]]西部の[[チリウン川]]河口に位置するバタヴィアは、12世紀から16世紀初頭には'''スンダ・クラパ'''と呼ばれ[[パジャジャラン王国]]の外港として周辺海域から多くの商人が来航していた<ref name="Muramatu">[[村松伸]]、島田竜登、[[籠谷直人]](編著)『歴史に刻印されたメガシティ』 <メガシティ> 東京大学出版会 2016年、ISBN 978-4-13-065153-0 pp.45-46,75-81.</ref>。[[1520年代]]以降は'''ジャヤカルタ'''、'''ジャカトラ'''などと呼ばれていたが、1619年[[オランダ東インド会社]]東インド総督[[ヤン・ピーテルスゾーン・クーン]]が[[バンテン王国]]からこの地を[[租借]]し、要塞バタヴィア城を築いてオランダ東インド会社のアジアにおける本拠地とした<ref name="Muramatu"/>。
 
バタヴィアの名は、[[古代ローマ]]時代に今のオランダにあたる地域に居住していた[[ゲルマン人]]の一部族、バターウィー族(Batavii)に由来し、オランダ地方の古称でもある{{efn|この名称は[[オランダ]]本国でも[[フランス]]支配下の[[バタヴィア共和国]]([[1793年]] - [[1806年]])として使われたことがある<ref>永積昭『オランダ東インド会社』46頁</ref>。}}。以後、バタヴィアはオランダ[[植民地]]時代を通じてこの名称で呼ばれた。[[朱印船]]時代の[[日本人]]は現地式に「ジャガタラ(咬𠺕吧)」と呼んでいる。
 
[[17世紀]]末頃のバタウィアは、優に80年の歴史を持つ落ち着いた町になっていた。城壁を巡らした地区のなかにはいくつもの砲塔を備えた政庁があった。[[チャイナタウン]]やたくさんの倉庫も築かれ、街路には小さな[[テラスハウス]]が無数に立ち並び、運河や酒場もあった。チャイナタウンがあるのは、当時オランダが日本と中国の間で[[中継貿易]]を営み、日本に中国の品物を含めて輸送する役割を担っていたことや、開発労働者として多くの中国人移民を導入していたことが挙げられる<ref name="Muramatu"/>。また、気候としては赤道直下ということから一年中高温多湿の町でもあり、ここへの地に移住してくるオランダ人は、[[マラリア]]、[[コレラ]]、[[デング熱]]などの熱帯病に倒れることが多かった<ref>サイモン・ウィンチェスター著、柴田裕之訳『タラカトアの大噴火 -世界の歴史を動かした火山-』早川書房 2004年 157ページ</ref>。
 
旧バタヴィアは、[[ヤン・ピーテルスゾーン・クーン]]によって創られた。18世紀には疫病が蔓延するヨーロッパ系住民の「墓場」として、東洋中に悪名を届かせていた<ref name="saimon">サイモン・ウィンチェスター著、柴田裕之訳『タラカトアの大噴火 -世界の歴史を動かした火山-』早川書房 2004年 163ページ</ref>。
 
[[1808年]]に総督に任命されたナポレオン麾下の元帥[[ヘルマン・ウィレム・ダーンデルス]]は、バタヴィアをイギリス軍のあらゆる攻撃から守り抜くために、海岸沿いにあった城・要塞・倉庫などを放棄し、「ベネデンスタッド(下の方の町)」と呼ばれていた古くからのバタヴィアを事実上閉鎖した。そして、海からの攻撃に対して安全と考えられる内陸で、海岸より8Km8キロメートルほど入った場所に新しい首都を築いた。新都は「ウェルトフレーデン(十分満足した)」と名付けられた<ref name="saimon"/>。
 
バタヴィアの港湾はチリウン川の河口を需要に応じて北側に埋め立てて造られた遠浅な港で、外洋船は湾内に停泊し小型船によって荷揚げを行っていた。また、バタヴィア湾内の[[オンルスト島]]には、通過貨物の中継用倉庫や船舶補修所を備えた港が整備されていた。[[1889年]]に開通した[[スエズ運河]]によって蒸気船の来航数が増加すると、物流拠点としての能力を拡充させるために[[タンジュン・ブリオク港]]が開発された<ref name="Muramatu"/>。
 
[[1942年]][[日本軍]]が当地に[[軍政]]を敷いた際、ジャカルタと都市名を変更した。[[1949年]][[第二次世界大戦]]後のインドネシアのオランダからの独立承認([[1949年]])ののちは、[[スカルノ]]政権が日本統治時代の『ジャカルタ』の名称を引き続き使用することを決定し、現在に至っている。
 
[[Image:Batavia.jpg|600px|thumb|center|17世紀のバタヴィア]]