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[[大永]]年間([[1521年]] - [[1527年]])から氏綱は[[寒川神社]]宝殿・[[箱根神社|箱根三所大権現]]宝殿の再建そして相模六所宮・[[伊豆山権現]]の再建といった寺社造営事業を盛んに行っており、その際に「相州太守」を名乗り(氏綱が相模守になった事実はない)、事実上の相模の支配者たるを主張している<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],pp.69-70.</ref>。
 
[[大永]]3年([[1523年]])6月から9月の間に氏綱は[[名字]]を伊勢氏から北条氏(後北条氏)へと改めたと推定される<ref name=mori60>[[#森(2005)|森(2005)]],p.60.</ref>。それに伴い旗印も伊勢の対い蝶紋から北条の三ッ鱗紋へと改めた
 
父・早雲は[[明応の政変]]([[1493年]])を契機に幕府の承認を受けて伊豆に侵攻して領国化し、さらには相模をも平定したが、山内・扇谷両上杉氏をはじめとする旧来からの在地勢力からは「他国の逆徒」と呼ばれて反発を受けていた<ref name=mori60/>。領国支配を正当化するために自らを関東とゆかりの深い[[執権]][[北条氏]]の後継者たらんとする発想は早雲の時代からあり、氏綱の代にこれを実現したことになる<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],pp.68-69;[[#森(2005)|森(2005)]],p.60;[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.70-72.</ref>。旧来、伊勢氏とは全く無関係の執権北条氏(鎌倉北条氏)を勝手に名乗った、あるいは早雲が北条氏末裔の北条行長の養子となった、などとされてきたが、近年の調査で[[正室]]の[[養珠院殿]]が執権北条氏の末裔とされる[[横井氏]](横江氏)の出身であった可能性が指摘されている。養珠院殿は永正12年(1515年)に三代目となる[[北条氏康|氏康]]を産んでいる。また近年の別の研究では、この北条改称は単なる自称ではなく、朝廷に願い出て正式に認められたものであると考えられている<ref>[[#森(2005)|森(2005)]],pp.60-61.</ref>。改称から数年後には執権北条氏の古例に倣った[[左京大夫]]に任じられ{{Refnest|group="注釈"|左京大夫は[[北条義時]]・[[北条泰時|泰時]]が任じられた官職である<ref>[[#森(2005)|森(2005)]],p.61.</ref>。}}、家格の面でも周辺の[[今川氏]]や[[武田氏]]、[[上杉氏]]と同等になっている<ref>[[#森(2005)|森(2005)]],p.61;[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.72.</ref>。なお、北条氏に改めたとされる大永3年6月から9月の時点では、氏綱と扇谷上杉家は和睦していたという見方もあり、北条改称は氏綱による一種の敵対表明であり、これをきっかけに氏綱は[[小机城|小机]][[領]]進出に踏み切り、更に扇谷・山内両上杉家の反北条同盟の成立、翌年の江戸城攻略に至ったとする解釈もある<ref>[[#黒田(2016総論)|黒田(2016総論)]],pp.17-19.</ref>。