「国衙軍制」の版間の差分

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== 展開期 ==
[[天慶]]年間(930年代末 - 940年代後葉)の[[承平天慶の乱|承平天慶の乱(平将門の乱・藤原純友の乱)]]は、寛平・延喜東国の乱および承平南海賊での勲功行賞が十分に行われなかったために発生したと解されている。寛平・延喜東国の乱と承平南海賊のいずれにおいても、反乱制圧・平和維持に尽力した最初期の[[武士]]たちは十分な恩賞が与えられたとは考えなかった。これら功績をあげた最初期の武士たちは貴種の血統を受けており[[武芸 (日本)|武芸]]をもって朝廷政治への再復帰を目指していたが、それが叶えられないために実力行使による抗議行動に出たのである。
 
結果として、抗議行動に出た者たちは反乱者として鎮圧された。そして、鎮圧した武士勲功者たちが勲功をもとに満足のいく恩賞を獲得することとなった。このとき勲功を挙げた者を'''承平天慶勲功者'''と呼ぶ。彼らのほとんどは貴族の血統に属してはいたが、極めて低い官位にある中下級官人であった。しかし、乱の反省から朝廷は彼らを五位・六位といった[[受領]]級の中・下流貴族に昇進させた。そのため、[[10世紀]]後半の貴族社会において承平天慶勲功者とその子孫は軍事に特化した家系、すなわち'''兵の家'''(つわもののいえ)として認知されるようになり、この兵の家が[[軍事貴族]]ないし[[武士]]の母体となった。
 
ところで、[[王朝国家]]体制が成立して以来、[[11世紀]]中期にかけて、中心的な税目である[[官物]]の収納については[[受領]]が大きな権限を有していた。受領は郡司・富豪層を出自とする[[田堵]][[負名]]らに租税納入の責任を課していたが、税率や減免率などをめぐって受領と負名層の間には対立が生じていた。任期切れ間近の受領は、成績をあげるためにしばしば法令どおりの苛烈な収奪を行った。そのため、田堵負名の中には受領を襲撃したり太政官へ訴訟する(→[[国司苛政上訴]])といった対抗手段に出る者も現れた。特に前者の受領襲撃は、反国家行為として「凶党」と呼ばれ、軍事制圧の対象となった。かかる凶党に対し、実際に追捕にあたったのは受領率いる国衙機構であった。以下、国衙軍制における追捕の流れを概観する。