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[[後冷泉天皇]]の東宮・尊仁親王(後三条天皇)の第一[[皇子]]として生まれる。母茂子、外祖父の能信ともに幼少時に死別し、父尊仁親王は関白の[[藤原頼通]]に冷遇されていた。[[治暦]]元年([[1065年]])に13歳で[[元服]]。治暦4年([[1068年]])、父帝即位とともに[[親王宣下]]を受け、貞仁親王となる。翌[[延久]]元年([[1069年]])[[立太子]]。同3年(1071年)に関白[[藤原師実]]の養女・[[藤原賢子]]が参入した。
 
延久4年([[1072年]])、後三条から[[譲位]]され、20歳で[[即位]]する。[[関白]]は置いたが師実と協調しつつも、延久5年([[1073年]])の後三条上皇の病没後も父同様に[[親政]]を目指し、[[荘園整理令|荘園整理]]などに力を入れ、[[永保]]元年([[1081年]])[[宇佐神宮]]境内地に神宝塔院を建立する等<ref>豊田寛三・[[後藤宗俊]]・[[飯沼賢司]]・末廣利人 編集 『大分県の歴史』 [[山川出版社]] 2011年 ISBN 978-4-634-32441-1、69p</ref>、[[摂関家]]の権勢を弱めることに努める。また摂関家内部でも関白の地位をめぐる[[藤原教通]]・[[藤原信長|信長]]父子と師実の対立があった。
 
父・後三条上皇とその母である[[禎子内親王|陽明門院]]は、白河天皇の異母弟・[[実仁親王 (平安時代)|実仁親王]]、更にその弟の[[輔仁親王]](摂関家に冷遇された[[三条源氏]]の系譜)に皇位を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を[[皇太弟]]と定めた。白河天皇はこれに反発したが、生前の後三条上皇や他の反摂関家の貴族の意志もあり(白河天皇は関白の養女・賢子を中宮としており、反摂関政治の立場としては好ましい状況ではなかった)、これを認めざるを得なかった。しかし[[応徳]]2年([[1085年]])に実仁親王は薨去し、これにより応徳3年([[1086年]])11月、白河天皇は輔仁親王ではなく、実子である8歳の善仁親王(第73代[[堀河天皇]])を[[皇太子]]に立て、即日譲位した。なお、堀河天皇の生母で白河天皇が寵愛した中宮・賢子は、実仁親王薨去の前年に若くして病没している。太上天皇となった白河上皇は、幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる[[院政]]が出現した。以後も引き続き摂政関白は置かれたが、その実態は次第に名目上の存在に近いものとなってゆく。