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宮([[皇居]])の名称は、『日本書紀』では'''軽曲峡宮'''(かるのまがりおのみや)、『古事記』では'''軽之境岡宮'''(かるのさかいおかのみや){{Sfn|軽曲峡宮(国史)}}。
 
宮の伝説地は、現在の[[奈良県]][[橿原市]]大軽町周辺と伝承される{{Sfn|軽曲峡宮(国史)}}{{Sfn|懿徳天皇(古代氏族)|2010年}}。同地付近の白橿町では、「軽曲峡宮跡伝承地」碑が建てられている({{ウィキ座標Coord|34|28|18.25|N|135|47|38.03|E|region:JP-29|位置|name=伝・軽曲峡宮阯}})<ref>[http://ryobo.fromnara.com/palace/p004-1.html 軽曲峡宮](陵墓探訪記<個人サイト>)。</ref>。
 
== 陵・霊廟 ==
[[File:Tomb of Emperor Itoku, haisho.JPG|thumb|200px|right|{{center|懿徳天皇 畝傍山南纖沙溪上陵<br />(奈良県橿原市)}}]]
[[天皇陵|陵]](みささぎ)の名は'''畝傍山南纖沙溪上陵'''(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)。[[宮内庁]]により[[奈良県]][[橿原市]]西池尻町にある俗称「マナゴ山」に治定されている({{ウィキ座標Coord|34|29|20.04|N|135|46|54.43|E|region:JP-29|位置|name=畝傍山南纖沙溪上陵(懿徳天皇陵)}})<ref>[http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/successive_list.html 天皇陵](宮内庁)。</ref><ref>宮内省諸陵寮編[{{NDLDC|1237123/8}} 『陵墓要覧』](1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。</ref>{{Sfn|畝傍山南繊沙渓上陵(国史)}}。宮内庁上の形式は山形。
 
陵について『日本書紀』では前述のように「畝傍山南纖沙溪上陵」、『古事記』では「[[畝傍山|畝火山]]の真名子谷の上」の所在とあるほか、『[[延喜式]]』諸陵寮では「畝傍山南繊沙渓上陵」として兆域は東西1町・南北1町、守戸5烟で遠陵としている{{Sfn|畝傍山南繊沙渓上陵(国史)}}。しかし後世に所伝は失われ、幕末修陵に際して現陵に治定された{{Sfn|畝傍山南繊沙渓上陵(国史)}}。なお、橿原市畝傍町のイトクノモリ古墳はその名から懿徳陵とされることもあったが、一説に皇后陵だともいわれる。