「大阪市立東洋陶磁美術館」の版間の差分

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[[高麗]]・[[朝鮮]]時代の[[朝鮮陶磁]]、[[中国の陶磁器|中国陶磁]]を中心に、[[国宝]]2件、国の[[重要文化財]]13件を含む約4000点が収蔵されている。この珠玉の[[コレクション]]は、安宅コレクションを中心に、他のコレクションからの寄贈や購入を加えて、徐々にその数を増していったものである。
 
安宅コレクションは、大手[[総合商社]]の[[安宅産業]]および創業家二代目の[[安宅英一]]会長が収集したものである。発端は、近代日本画の[[速水御舟]]の作品を収集していた演出家文芸評論家の[[武智鉄二]]が、戦後、武智歌舞伎を立ち上げそれを運営するに当たって、費用を捻出するために自身の所有する御舟の作品を売却し始めたことをかねてから親交のあった英一が知り、作品の散逸を恐れて個人での資金負担が難しいため、安宅産業の役員に相談して、御舟の作品購入のために会社が乗り出す仕組みを考案<ref>『ザ・ラストバンカー <small>西川善文回顧録</small>』p.96。</ref><ref>『美の猟犬 安宅コレクション余聞』p.17 - 19。</ref>。[[1951年]](昭和26年)の同社[[取締役会]]で、企業利益の社会還元と社員教養の向上のため、美術品収集を会社事業の一環として行うことを正式に決議。以後、御舟の代表作である「炎舞」、「翠苔緑芝」、「名樹散椿」がコレクションに加わり、最終的には日本画30点、素描76点、計106点に上る日本最大のコレクションに成長していく<ref>『美の猟犬 安宅コレクション余聞』p.19。</ref>。
 
英一は社業の傍ら東洋陶磁のコレクション形成に心血を注ぎ、他の[[コレクター]]の名品も次々と安宅コレクションに加えていった。その総額は二十数年間で七十数億円にも上る。そのため特に初期には、世間から金にあかせて買いまくっているという批判も強かったが、実際には異なる。あくまで会社のコレクションのため、購入には月々の購入限度額が決まっており、会社の了解を取らねばならなかった。名品が出てきた時には資金を1年先、2年先まで先食いしていたのが実際の所で、これが改善されたのは会社の景気が良くなった昭和40年代後半頃だという<ref>「大阪市立東洋陶磁美術館 館長インタビュー」- 伊藤郁太郎『「美の求道者・安宅英一の眼─安宅コレクション」展図録。』、p.245。</ref>。