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'''浅野 長広'''(あさの ながひろ、[[寛文]]10年([[1670年]]) - [[享保]]19年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]([[1734年]][[7月20日]]))は、[[江戸時代]]前期から中期の[[旗本]]。[[忠臣蔵]]で有名な[[浅野内匠頭]]の弟。幼名は'''戌千代'''(いぬちよ)。通称は'''大学'''(だいがく)。[[忠臣蔵]]を扱った作品においてはほぼ欠かすことなく登場するものの、たいてい紋切り型の人物として描かれ、明確な性格付けが行われた例は[[元禄繚乱]](性格付けがきちんとなされていたのみならず、演じた役者が実家において自身の上に長兄と長姉を持つ次男であったうえ、同じ芸能事務所に所属し、すぐ上に位置する先輩格の俳優が兄長矩を、同世代の女優がその正室を演じるという事情があって、極めて演じやすい役となった結果役者本人とほとんど同化してしまい、強烈な印象をもたらす存在となったを除いてほとんど見られない。作品によっては名前しか登場しないこともある
 
==人物像==
[[寛文]]10年([[1670年]])10月29日、[[赤穂藩]]主[[浅野長友|浅野采女正長友]]の次男として江戸で誕生。母は[[内藤忠政]]([[志摩国]][[鳥羽藩]]主)の娘波知。15歳のときに兄とともに[[山鹿素行]]の門下に入り、兵学などを学んだ。[[元禄]]7年([[1694年]])8月21日、兄長矩から[[播磨国]]赤穂郡の新田3000石を分与されて[[旗本]]の寄合(3000石以上の旗本で無役の者)に列し、幕府から木挽町に屋敷を賜った。同時にこのとき子のない長矩の仮養子となる。[[元禄]]7年([[1694年]])9月1日、はじめて将軍[[徳川綱吉]]に拝謁。[[元禄]]8年([[1695年]])12月、長矩が病気で危篤に陥るに及んで仮養子から正式に養子となった。しかし次第に兄と不仲となっていき、廃嫡の噂も立てられた。[[元禄]]13年([[1700年]])11月14日には[[伊勢国]][[菰野藩]]主[[土方雄豊|土方市正雄豊]](1万1000石)の養女(雄豊の早世した嫡子[[土方豊高|土方杢之助豊高]]の娘)を正室に迎えた。この縁組の背景には浅野内匠頭長矩が[[天和]]3年([[1683年]])に勅使饗応役を命じられた際に土方雄豊が院使饗応役を務めていたことが関係していると思われる。
[[忠臣蔵]]を扱った作品においてはほぼ欠かすことなく登場するものの、たいてい紋切り型の人物として描かれ、明確な性格付けが行われた例は『[[元禄繚乱 (NHK大河ドラマ)|元禄繚乱]]』(性格付けがきちんとなされていたのみならず、演じた役者が実家において自身の上に長兄と長姉を持つ次男であったうえ、同じ芸能事務所に所属し、すぐ上に位置する先輩格の俳優が兄長矩を、同世代の女優がその正室を演じるという事情があって、極めて演じやすい役となった結果役者本人とほとんど同化してしまい、強烈な印象をもたらす存在となった)を除いてほとんど見られない。作品によっては名前しか登場しないこともある。
 
==略歴==
[[元禄]]14年([[1701年]])3月14日、兄[[浅野長矩]]が江戸城において[[高家]][[吉良義央]]に刃傷に及んで切腹となると、弟長広も連座して閉門謹慎、また3000石の所領も召し上げられた。その後、浅野の遺臣[[大石内蔵助]]らは浅野長広をもっての浅野家再興運動をおこなっていたが、翌年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]に広島浅野本家にお預けとされ、浅野家再興は絶望的となる。[[大石良雄]]らによる[[吉良義央|吉良]]邸討ち入りがあったのはそれから5ヵ月後の事であった。なお長広自身は、お預かり中、浅野本家から1000俵が支給された。
[[寛文]]10年([[1670年]])10月29日、[[赤穂藩]]主[[浅野長友|浅野采女正長友]]の次男として江戸で誕生。母は[[内藤忠政]]([[志摩国]][[鳥羽藩]]主)の娘波知。15歳のときに兄とともに[[山鹿素行]]の門下に入り、兵学などを学んだ。
 
[[元禄]]7年([[1694年]])8月21日、兄長矩から[[播磨国]]赤穂郡の新田3000石を分与されて[[旗本]]の寄合(3000石以上の旗本で無役の者)に列し、幕府から木挽町に屋敷を賜った。同時にこのとき子のない長矩の仮養子となる。元禄7年9月1日、はじめて将軍[[徳川綱吉]]に拝謁。
[[宝永]]6年([[1709年]])8月20日、将軍[[徳川綱吉]]死去に伴う大赦で許され、[[宝永]]7年([[1710年]])9月16日には新将軍[[徳川家宣]]に拝謁して改めて[[安房国]][[朝夷郡]]・[[平郡]]に500石の所領を賜り旗本に復した。またこれとは別に浅野本家からも300石を支給され続けた。ここに旗本ながら赤穂浅野家は「御家再興」を果たした。[[享保]]9年([[1724年]])7月19日、家督を嫡男の[[浅野長純]]に譲って隠居した。[[享保]]19年([[1734年]])6月20日に65歳で没し、兄内匠頭や四十七士達と同じ高輪[[泉岳寺]]に葬られた。法名は亮監院殿月清涼山大居士。また四谷の妙行寺にも墓があり、そこの法名は蓮光院殿妙澄日清大姉。
 
[[寛文]]10年([[1670年]])10月29日、[[赤穂藩]]主[[浅野長友|浅野采女正長友]]の次男として江戸で誕生。母は[[内藤忠政]]([[志摩国]][[鳥羽藩]]主)の娘波知。15歳のときに兄とともに[[山鹿素行]]の門下に入り、兵学などを学んだ。[[元禄]]7年([[1694年]])8月21日、兄長矩から[[播磨国]]赤穂郡の新田3000石を分与されて[[旗本]]の寄合(3000石以上の旗本で無役の者)に列し、幕府から木挽町に屋敷を賜った。同時にこのとき子のない長矩の仮養子となる。[[元禄]]7年([[1694年]])9月1日、はじめて将軍[[徳川綱吉]]に拝謁。[[元禄]]8年([[1695年]])12)12月、長矩が病気で危篤に陥るに及んで仮養子から正式に養子となった。しかし次第に兄と不仲となっていき、廃嫡の噂も立てられた。[[元禄]]13年([[1700年]])11)11月14日には[[伊勢国]][[菰野藩]]主[[土方雄豊|土方市正雄豊]](1(1万1000石)の養女(雄豊の早世した嫡子[[土方豊高|土方杢之助豊高]]の娘)を正室に迎えた。この縁組の背景には浅野内匠頭長矩が[[天和]]3年([[1683年]])に勅使饗応役を命じられた際に土方雄豊が院使[[饗応役]]を務めていたことが関係していると思われる。
 
[[元禄]]14年([[1701年]])3)3月14日、兄[[浅野長矩]]が江戸城において[[高家]]肝煎[[吉良義央]]に刃傷に及んで切腹となると、弟長広も連座して閉門謹慎、また3000石の所領も召し上げられた。その後、浅野の遺臣[[大石良雄|大石内蔵助]]らは浅野長広をもっての浅野家再興運動をおこなっていたが、翌年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]に広島浅野本家にお預けとされ、浅野家再興は絶望的となる。[[大石良雄]]らによる[[吉良義央|吉良]]邸討ち入りがあったのはそれから5ヵ月後の事であった。なお長広自身は、お預かり中、浅野本家から1000俵が支給された。
{{先代次代|[[浅野氏|長広流浅野家初代当主]]|1710~1724|[[浅野長矩]]|[[浅野長純]]}}
 
[[宝永]]6年([[1709年]])8)8月20日、将軍[[徳川綱吉]]死去に伴う大赦で許され、[[宝永]]7年([[1710年]])9)9月16日には新将軍[[徳川家宣]]に拝謁して改めて[[安房国]][[朝夷郡]]・[[平郡]]に500石の所領を賜り旗本に復した。またこれとは別に浅野本家からも300石を支給され続けた。ここに旗本ながら赤穂浅野家は「御家再興」を果たした。[[享保]]9年([[1724年]])7)7月19日、家督を嫡男の[[浅野長純]]に譲って隠居した。[[享保]]19年([[1734年]])6月20日に65歳で没し、兄内匠頭や四十七士達と同じ高輪[[泉岳寺]]に葬られた。法名は亮監院殿月清涼山大居士。また四谷の妙行寺にも墓があり、そこの法名は蓮光院殿妙澄日清大姉
 
享保19年([[1734年]])6月20日に65歳で没し、兄内匠頭や四十七士達と同じ高輪[[泉岳寺]]に葬られた。法名は亮監院殿月清涼山大居士。また四谷の妙行寺にも墓があり、そこでの法名は蓮光院殿妙澄日清大姉。
 
{{先代次代|[[浅野氏|長広流浅野家初代当主]]|1710~1724|[[浅野長矩]]|[[浅野長純]]}}
 
[[Category:浅野氏|なかひろ]]