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Asuka 45 (会話 | 投稿記録)
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[[水戸藩]]士で、幕末、横浜鎖港が一向に実行されない事態に憤った[[藤田小四郎]]([[藤田東湖]]の四男)の檄に呼応し、水戸町奉行[[田丸稲之衛門]]を主将とし、元治元年[[3月27日 (旧暦)|3月27日]](1864年[[5月2日]])、[[筑波山]]に集結し62人の同志たちと共に挙兵。([[天狗党の乱]])
 
中村ら筑波勢は急進的な尊王攘夷思想を有していたが、[[日光東照宮]]へ攘夷決行祈願の檄文に「上は天朝に報じ奉り、下は幕府を補翼し、神州の威稜を万国に輝き候様致し度…」と記すなど、表面的には幕府を敬い、攘夷の決行もあくまで[[東照宮]]([[徳川家康]])の遺訓であるとしていた<ref>『日光東照宮と板垣退助』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂</ref>。そのため、[[徳川家康]]を祀った聖地である[[日光東照宮]]を占拠し、攘夷を決行する事を計画し、[[元治元年]][[4月3日 (旧暦)|4月3日]](1864年[[5月8日]])、[[下野国]]日光([[栃木県]][[日光市]])まで進軍したが、[[日光奉行]]・小倉正義の通報により近隣各藩兵が出陣したため、中村らは日光から[[太平山 (栃木県)|太平山]](栃木県[[栃木市]])へ移動。同地に5月末まで駐留した。のち乾退助は中村勇吉らから、[[水戸学]]における[[尊皇]]思想の影響を受け研鑽した。水戸浪士が[[東照宮]]を敬う姿は、[[戊辰戦争]]の際、退助が敬崇を尽くした参詣を行い、戦禍から守った行動にも貫かれている<ref>『日光東照宮と板垣退助』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂</ref>。
 
=== 幕府軍と交戦 ===
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=== 江戸薩摩藩邸の焼討事件 ===
これらの状況下で幕臣達は「続出する騒乱の黒幕は薩摩藩」との疑いを強くし、将軍の留守を守る[[淀藩]]主の[[老中]][[稲葉正邦]]はついに武力行使も辞さない強硬手段を決意する。12月24日(1868年[[1月18日]])、庄内藩江戸邸の留守役[[松平親懐]](権十郎)に「薩摩藩邸に賊徒の引渡しを求めた上で、従わなければ討ち入って召し捕らえよ」との命を下す。これらの命を受けて、12月25日未明、庄内藩に加え、[[上山藩]]、[[鯖江藩]]、[[岩槻藩]]の三藩と、庄内藩の支藩である[[庄内藩#出羽松山藩|出羽松山藩]]が薩摩藩三田屋敷を包囲<ref>薩摩藩三田屋敷(現在地・[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]芝5丁目7-1 NEC本社ビル附近)</ref>。交渉役の庄内藩士・[[安倍藤蔵]]が薩摩藩邸を単身で訪問。藩邸の留守役の[[篠崎仲苗|篠崎彦十郎]]を呼び、中村らの浪士を武装を解除した上で一人残らず引き渡すよう通告したが、その場で篠崎は即時引き渡しを拒否。安倍の指示によって、幕府方は薩摩藩邸討入りを決行。篠崎は庄内藩兵に槍で突き殺される。さらに包囲する庄内藩兵たちも砲撃を始め、同時に西門を除く三方から薩摩藩邸に討ち入りを開始。迎え撃つ薩摩藩側も応戦するが、多勢に無勢であり戦闘開始から3時間後、旧幕府側の砲撃や浪士らの放火によって薩摩藩邸はいたるところで延焼し、もはや踏みとどまれる状況ではなかった。当初より脱出を指示されていた中村ら浪士達は、
火災に紛れて藩邸を飛び出し、二十数名が一組となって逃走。('''[[江戸薩摩藩邸の焼討事件]]''')