「少弐資能」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
35行目:
[[弘安]]4年([[1281年]])の[[元寇#弘安の役|弘安の役]]にも老齢の身を押して出陣した。[[元寇#壱岐島の戦い|壱岐島の戦い]]では元軍を相手に奮戦し、壱岐島から元軍を駆逐した<ref>『史料綜覧』第5編之905 258頁</ref>。しかし、この時の負傷がもとでまもなく死去したという。享年84。大応国師[[南浦紹明]]<ref>渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年(p.68)</ref>は、導師として[[太宰府]]横岳[[崇福寺]]において葬儀を執り行った。
 
なお、[[仁治]]3年([[1242年]])に、[[円爾]]([[聖一国師]])が[[博多]]に[[承天寺]]<ref>渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年(p.12)の解釈によると、父の武藤資頼の生前の約束であったのか、没後14年を経ているにもかかわらず、承天寺の喜捨(捨地壇越)は父資頼として、その名をたたえているのである。</ref>
を開く際に、資能は寺地数万坪を寄進した。