「平和大通り」の版間の差分

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{{See also|[{{NDLDC|3856359}} 戦争被害調査資料  広島復興都市計画街路網公園配置図] - 国会図書館}}
 
同1946年11月、この計画に戦災復興院嘱託であった[[丹下健三]]が参加{{Refnest|group=補足|丹下が来広した時期として1946年夏頃ともされるが、ここでは用いたソースから1946年11月説を採用する<ref name="34sendai" />。}}し具体的に進められていった<ref name="34sendai" />。まず工事が始まったのは比治山庚午線からであり、同年11月整地が始まり区画整理が進められたが、他の復興事業とそれに対する人口の不足、そして財政難でなかなか進まなかった{{Sfn|石丸紀興|1998|p=246}}。そこへ浜井市長ら関係者の尽力により1949年(昭和24年)8月「[[広島平和記念都市建設法]]」が[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)お墨付きで公布、復興事業が進むようになった{{Sfn|石丸紀興|1998|p=246}}<ref>{{Cite web|publisher=中国新聞経済メールマガジン|date=2006-12-01|url=http://www.media-club.jp/media/backnumber/cmail230/index.html|title=広島のマッカーサー道路|accessdate=2015-05-26}}</ref>。また海外からの支援もこうした復興の手助けとなり、例えば新橋と新大橋(後の平和大橋と西平和大橋)は[[米国対日援助見返資金特別会計]]によって架橋されたものである<ref name="alessandro" /><ref>{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://www.chugoku-np.co.jp/abom/03abom/kiroku/52pray.html|title=祈りの場への橋(52年)|date=2003-05-13|accessdate=2015-05-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061007040233/http://www.chugoku-np.co.jp/abom/03abom/kiroku/52pray.html|archivedate=2006年10月7日}}</ref>。
 
この間、復興審議会での論議と平和記念都市建設法成立を経て今後の広島の方向性を明確なものとした「広島平和都市建設構想」が確立し、復興都市計画をベースに新たな都市計画「広島平和都市建設計画」が作成されていった<ref name="alessandro" /><ref name="34sendai" /><ref name="4ae6aedd007">{{Cite web|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1131328219626/html/common/4ae6aedd007.htm|title=広島市の復興 ~広島平和記念都市建設計画の誕生~|publisher=広島市|accessdate=2015-05-22}}</ref>。