「エティエンヌ・ロジェ」の版間の差分

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その後1686年2月3日にアムステルダムのプロテスタントであるワロン派の教会の信徒となり、1891年に同じノルマンディーの[[バイユー]]出身の亡命ユグノーの娘、マリー・スザンヌ・ド・マナヴィル(Marie-Suzanne de Magneville 1670頃-1712)とワロン派教会で結婚した。1691年に、音楽家で1685年から出版業を営んでいたアントワーヌ・ポワンテル(Antoine Pointel 1660-1706)の下で1694年まで見習いとして勤める。その後別の出版業者ジャン=ルイ・ド・ロルム(Jean-Louis de Lorme ca.1655- ?)の下でも見習いを勤め、1695年10月24日に出版業者の共同組合([[ギルド]])の組合員の資格を得る。1696年12月までドルムと共同で出版事業を営んだロジェは1697年には独立して出版業を営み始める<ref>七條めぐみ『アムステルダムにおけるリュリのオペラの組曲版 -楽譜出版者エティンヌ・ロジェ( 1665/66 – 1722 )に関する歴史、文献、音楽面からの研究』p29-31</ref><ref>Isabella Henriëtte van Eeghen: [https://www.dbnl.org/tekst/eegh004amst05_01/eegh004amst05_01_0035.php De Amsterdamse boekhandel 1680–1725. Deel 4. Gegevens over de vervaardigers, hun internationale relaties en de uitgaven N-W, papierhandel, drukkerijen en boekverkopers in het algemeen] (1967)</ref>。
 
ロジェの出版事業は当初亡命ユグノーを主な顧客とした[[フランス語]]の書籍の出版が主であり、1696年の最初のカタログでは楽譜11に対し書籍が21で、発行した楽譜もイタリアの出版社[[ジュゼッペ・サーラ]]やアントニオ・ボルトリの海賊版が主であった<ref>トールボット (1993) p24</ref>。しかしオランダの印刷技術はイタリアの移動タイプ式に対して誤植のリスクが低く再版の容易な[[エングレービング|彫版印刷]]であり、亡命ユグノーの書籍販売ネットワークによって、北ドイツからイングランド、イタリアにまで渡る広範な販売経路を保持していた、またロジェは各国に代理人を抱え、オランダやイアギリスの新聞に積極的に広告を掲載して宣伝に努めた。[[アルカンジェロ・コレッリ|コレッリ]]の作品5『ヴァイオリン・ソナタ集』の再販を巡って[[ジョン・ウルシュ (出版社)|ジョン・ウルシュ]]と激しい広告合戦を行った1700年にはカタログの楽譜の数が100を超え、1711年には[[アントニオ・ヴィヴァルディ|ヴィヴァルディ]]の作品3『[[調和の霊感]]』の初版を出版し、1714年にはコレッリの作品6『コンチェルト・グロッソ集』の初版出版権を勝ち取って出版した。1716年の最後のカタログでは楽譜の数が585に達し、ロジェの会社はロンドンのウオルシュ、パリのル・クレールと並ぶヨーロッパの楽譜出版の主流となった。1710年代からはヴィヴァルディのほか、[[トマゾ・アルビノーニ|アルビノーニ]]、[[ジュゼッペ・タルティーニ|タルティーニ]]といった[[バロック音楽|バロック期]]の著名なイタリアの作曲家がロジェ社から曲集の初版を出版するようになり、[[ゲオルク・フィリップ・テレマン|テレマン]]、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]といったイタリア以外の作曲家の再販も行うようになった<ref> 七條めぐみ『近世オランダの出版業におけるユグノーのネットワーク : エティエンヌ・ロジェ(一六六五/六六―一七二二)の書籍・楽譜出版活動を中心に』p18</ref>。
 
== ジャンヌ・ロジェ ==