「貿易史」の版間の差分

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; 交易港
[[File:Plattegrond van Deshima.jpg|thumb|right|160px|長崎の[[出島]](1824年、もしくは1825年)]]
管理貿易が確立されると、複数の共同体が参加する制度および場所として、[[交易港]]が定められる場合がある。交易港では政治的中立性が維持されて、専門の交易者、政府の代表、特許会社などが取り引きを行った。また、貿易品を扱う市場は、地元の品を扱う市場とは区別された。貿易の促進のために、商品に関税をかけない[[自由港]]の制度も古代より存在した{{Sfn|ポランニー|2005|ppp=補論1491-493}}。交易港のパターンとしては、(1)共同体の境界上において一時的に開催され、定住人口はない。(2)継続的な性質を持ち、交易者の滞在や手工業者などの定住地がある。(3)貿易を目的としなくなって放棄されるか、在地の経済のために機能したり政治・行政・軍事的な目的を持つようになった場所、などがある{{Sfn|角谷|2006|p=160}}。
 
; 交易者
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[[ナイル川]]に沿って、[[紀元前5200年]]頃からエジプト北部、[[紀元前4200年]]頃には南部で系統の異なる農耕・牧畜文化が存在した。ナイル下流に[[ナカダ文化]]が栄えると、南の[[ヌビア]]との交易が行われるようになる。ナカダからはビール、油、チーズ、ヌビアからは[[象牙]]、[[黒檀]]などが輸出された。交易用の土器は、[[紀元前3200年]]頃になると[[パレスチナ]]産も含まれており、交易の長距離化が進んでいた{{Sfn|高宮|2006|loc=第2章第4節}}。[[古代エジプト]]の王朝が統一されて古王国時代になると、官僚や神官によって遠征隊が組織されて、砂漠での採石や採鉱、ミイラの製作に必要な[[ナトロン]]の採集を行った。貿易においても同様に遠征隊が派遣されて、金や[[乳香]]を[[プント国]]に求め、象牙や黒檀はヌビア、銀はメソポタミア、木材は東地中海のグブラから輸入した。エジプト王朝が弱体化した時期にはヌビアに遊牧民が生活して交易を行ったが、[[紀元前21世紀|紀元前2040年]]以降の中王国時代には、エジプト王朝がナイル川の第2瀑布まで進出して金を採集するようになる。採掘やプント国との貿易で得た金は神殿や王宮に蓄蔵され、地中海やメソポタミアとの貿易にも用いられた。[[紀元前17世紀]]から異民族の[[ヒクソス]]が建国した第15王朝や第16王朝では、クレタ島で栄えた[[ミノア文明]]などとの貿易が行われた{{Sfn|屋形|1998|p=}}。
 
マケドニアの[[アレクサンドロス3世]]の征服後には、ナイル川の河口に[[アレクサンドリア]]が建設され、政治と貿易の拠点となる。穀倉地帯に恵まれていたエジプトは、ギリシア向けの穀物輸出も行った。やがて、世界最古の価格が変動する国際穀物市場が成立して、[[ナウクラティスのクレオメネス]]が運営した。クレオメネスは飢饉時に穀物の輸出を規制して、国内の食料を確保した。また、貿易担当者を4つのグループに分けて、本土の輸出、航海の輸送、[[ロドス島]]での交渉、ギリシア各地での情報収集を担当させて、価格の最も高い都市へ穀物を運んだ。この政策は国庫に8000[[タレント (単位)|タラントン]]という巨額の富をもたらす一方で、穀物の安定供給を求めるギリシアには批判された。クレオメネスの貿易政策は彼の死後に[[プトレマイオス朝]]に引き継がれ、ローマがエジプトを属州として[[アエギュプトゥス]]となるまで続く。そののちも、アレクサンドリアは地中海貿易で栄えた{{Sfn|ポランニー|2005|locpp=第15章第2節、第3節422-428}}。
 
; 北アフリカ
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貿易商人は、商船を所有するナウクレーロスと、商船に同乗したり陸上で貿易をする[[エンポロス]]に大きく分かれており、ポリス内の市場で取り引きをする[[カペーロス]]とは区別された。土地を所有できない外国人居留者である[[メトイコス]]が、ナウクレーロスやエンポロスに従事した。メトイコスには、ミケーネ文明の崩壊でアテナイに住み着いた難民が多かったとされる。アテナイに届いた穀物には2パーセントの関税がかかり、エンポロスが3分の2を市内に運び、それをカペーロスが[[アゴラ]]で販売した{{efn|国内のアゴラの穀物価格は公定価格が維持されていたが、紀元前4世紀にアテナイの海上支配が衰えると、エンポリウムの貿易では穀物価格が高騰して、アゴラの価格にも影響を与えた{{Sfn|前沢|1999|p=}}。}}{{Sfn|前沢|1999|p=}}。
 
戦争に付随するかたちで奴隷貿易も行われており、[[従軍商人]]によって戦利品や捕虜が競売にかけられ、エンポリウムへ送られた。[[トゥキュディデス]]の『[[戦史 (トゥキディデス)|戦史]]』や、[[クセノポン]]の『[[アナバシス]]』には、戦争と結びついた貿易が記されている{{efn|アテナイの喜劇作家[[アリストパネス]]の戯曲『[[アカルナイの人々]]』では、[[ペロポネソス戦争]]の最中に敵国と単独和平をして貿易で儲ける人物が登場して、戦争に積極的な有力者と対照的に描かれている{{Sfn|ポランニー|2005|locpp=第12章第6節326-329}}。}}{{Sfn|ポランニー|2005|locpp=第10章第2節, 第12章第6節237-239}}。
 
; ローマ
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[[File:Jan Vermeer van Delft 023.jpg|thumb|200px|right|フェルメール作『[[兵士と笑う女]]』(1658年-1659年頃)]]
16世紀後半には[[スペイン・ハプスブルク朝]]がプロテスタント弾圧を強め、アントウェルペンが陥落する。現地の商人たちは、[[アムステルダム]]、[[ロンドン]]、[[ハンブルク]]へ移住した。そのため3つの都市は貿易や金融で類似点を持ち、ときには補完関係やリスク分散を行いつつ繁栄した。アムステルダムは、スペインやポルトガルの異端審問を逃れて移住したユダヤ人の資金も流入して、金融技術の発達にともなってヨーロッパの金融センターとなる{{Sfn|名城|2008|p=}}。法学者[[グロティウス]]が公海と自由貿易を論じた『[[自由海論]]』も、この時代に書かれている{{efn|オランダの[[デルフト]]に住んでいた画家[[ヨハネス・フェルメール]]の作品『[[兵士と笑う女]]』には北アメリカのビーバーの毛皮帽子、『[[地理学者 (フェルメールの絵画)|地理学者]]』には和服が描かれており、当時のオランダの繁栄がうかがえる{{Sfn|ブルック|2014|p=}}。}}{{Sfn|ブルック|2014|p=}}。
 
ハンブルクは大陸ヨーロッパにおいてアムステルダムに次ぐ港湾都市となり、16世紀から18世紀にかけて中立都市として栄え、他の都市が交戦中でも各国と貿易を行っていた。西ヨーロッパで開催されていた大規模な国際定期市は次第に内陸へと移り、[[ライプツィヒ]]や[[フランクフルト]]のように[[見本市]]として存続する場合もあった{{Sfn|谷澤|2010|p= }}。ロシアでは[[マカリエフの定期市]]や[[ニジニ・ノヴゴロド]]の定期市で、毛皮、茶、絹といったヨーロッパとアジアの物産が集められた{{Sfn|ウォルフォード|1984|loc=第5章}}。