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官務のあとつぎ
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[[後鳥羽天皇|後鳥羽院政期]]に[[大炊寮|大炊助]]・[[大舎人寮|大舎人]]を歴任する。
 
[[貞応]]2年([[1223年]])[[壬生家#壬生家(小槻姓)|壬生]]の[[小槻国宗]]が没するが、その子息・[[小槻淳方|惟任]]が幼少であったことから季継が[[史 (律令制)|大夫史]]を継ぎ<ref>「小槻惟任申状案」『壬生家文書』23</ref>、[[建久]]2年([[1191年]])以来約30ぶりに[[大宮家#大宮家(小槻姓)|大宮家]]に大夫史の[[官職]]を取り戻す。大夫史に就くと、以後没するまで21年間にわたってその地位を保ち、家司として務めた[[摂政]]・[[九条道家]]と結んで、それまで壬生官務家に押されがちであった大宮官務家の基礎を固める。また、国宗から受け継いだ所領である官厨家便補保([[太政官厨家|太政官厨家領]])を、大宮家のみで独占しようとしたとされ、大宮家と壬生家とが相論を重ねるきっかけを作った<ref>『朝日日本歴史人物事典』</ref>。この間に、[[嘉禄]]元年([[1225年]])[[正五位|正五位上]]に至るとともに、修理東大寺大仏長官のほか、[[備前国|備前権介]]・[[紀伊国|紀伊守]]・[[筑前国|筑前守]]などの地方官を兼任している。
 
また、摂政・九条道家<ref>『玉蘂』嘉禎元年正月1日条</ref>や摂政・[[九条教実|二条教実]]<ref>天福□年□月□日『香取文書』「旧大禰宜家文書」18</ref>など[[九条家]]の政所[[家司]]を務めた。
 
[[寛元]]2年([[1244年]])9月27日[[崩御#卒去|卒去]]。[[享年]]53。子息の秀氏が若年であったため、官務(左大史上首)の地位は[[壬生家#小槻姓|壬生流]]の[[小槻淳方]]が継いだ
 
なお、日記として『左大史小槻季継記』が伝わるが、近年の研究では実際の著者は子息の[[小槻秀氏|秀氏]]であったことが判明している。
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**男子:小槻文世(?-1272)
**男子:[[小槻秀氏]](?-1292)
**男子:[[小槻朝治]](1220-1291)
**男子:守遍