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* 1967年(昭和42年) [[石原プロ]]・[[三船プロ]]などのスターによる独立制作プロダクションに触発された二枚看板のひとり勝新太郎が、[[勝プロダクション|勝プロ]]を設立して独立する。4月に二枚看板のもうひとりである市川雷蔵主演の本格的な和製[[ハードボイルド]]の傑作『[[ある殺し屋]]』が公開される。ところが、その同年9月に専属俳優の[[丸井太郎]]がガス自殺した。元々[[大部屋俳優]]であった丸井はテレビ室製作の『[[図々しい奴]]』のヒットで茶の間の人気者となったが、それを見た永田によって五社協定を盾に無理矢理に映画界に引き戻され、その後の飼い殺しに等しい扱いに絶望したものであったという。
: 同月、映画事業の赤字に起因する巨額負債と経営難が表面化した。これをきっかけに永田体制は破局へと徐々に向かい始める。
* 1968年(昭和43年) 市川雷蔵が『[[関の弥太っぺ]]』撮影期間中の6月11日に腸からの大量出血を発症して入院し、[[直腸癌]]が判明して手術を受けた。雷蔵は当時、大映の「頼み綱」とまで言われ、経営的苦境の会社や義父である永田のために療養を切り上げて現場復帰しなければならず、年内に1969年1月公開の『[[眠狂四郎|眠狂四郎悪女狩り]]』を撮影したが、衰弱した身体で立ち回りはできずに代役を立てる状態であった。6月29日に[[有吉佐和子]]原作の映画『[[不信のとき]]』を公開する。主演した田宮二郎が配役の序列が4番目であることに抗議すると、永田は激怒して田宮を一方的に解雇し五社協定を盾に他社制作の映画・テレビドラマに出演できなくさせる。山本富士子、丸井太郎に続く本件で、五社協定の存在と弊害がマスコミに大きく取り上げられた。永田は、自ら作り上げて日本映画の黄金時代を支えた「[[スター・システム (俳優)|スターシステム]]」と、その根底を支えた五社協定の崩壊を自ら崩壊を招いた。同年、人気若手女優の[[姿美千子]]も退社している。1968年は若手では峰健二改め[[峰岸徹|峰岸隆之介]]が入社し『[[講道館破門状]]』で登場する明るい話題もあり、永田は田宮に代わる看板スター候補として大きな期待を寄せたが、末期の大映が置かれた環境はスター候補として峰岸が双肩で背負うには過酷であった。
* 1969年(昭和44年)、年初から入院中だった雷蔵が7月17日に37歳で死去した。前年末に痛みをこらえて撮り終えていた2月公開作『[[博徒一代 血祭り不動]]』が遺作となる。看板スターを相次ぎ失い、新人スターや若手スタッフも育成できず、勝プロダクションと共同製作の『座頭市』シリーズも勢いはなく、テレビ業界の興隆に押されて映画産業全体は斜陽化しており、大映は観客動員数も深刻な落ち込みを始める。芸能界で永田の威光も薄れ、後に苦境を乗り越えて著名タレントとなった田宮と鉢合わせした際、田宮に啖呵を切られて屈辱的な応対をされた。