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== 略歴 ==
裴蘊の一族は代々南朝の高官をつとめた家柄で、曾祖父裴髦の弟に[[梁 (南朝)|梁]]の[[侍中]]・左衛将軍の[[裴邃]]、祖父に右衛将軍(『[[梁書]]』『[[南史]]』より)の[[裴之平]]などがいる。裴蘊の父[[裴忌]]は陳の都官尚書となったが、[[呉明徹]]とともに[[呂梁の戦い]]で[[北周]]戦いに敗れ、北朝に囚われの身となった。残された裴蘊は陳に仕え続け、官吏としての才幹を評価され、直閤将軍・興寧[[県令]]を歴任した。裴蘊は父が北朝にいることから、密かに[[隋]]の[[楊堅|文帝]]に書を送り、これと通じるようになった。隋が陳を滅ぼすと、文帝は降伏した南朝の人士の中で、裴蘊がかねてから自分に帰順していたことを嘉し、儀同三司を授け、さらに開府を許した。洋州・直州・棣州の[[刺史]]を歴任し、いずれの地でも有能との名声を得た。
 
文帝を継いだ煬帝は、裴蘊の名声を聞き、彼を召して[[太常]]少卿に任じた。裴蘊は煬帝に奏上して、北周・[[北斉]]・梁・陳の楽士子弟を集め、民間で歌舞音曲の才能ある者たちを太常に所属させ、宮中の楽人を3万人以上増やした。煬帝は大いに気をよくし、彼を民部侍郎に任じた。当時、天下は統一されたばかりで、戸籍の遺漏が甚だしく、また民の中には年齢を偽って租税や賦役を免れようとする者が多かった。[[609年]]、裴蘊は戸籍の虚偽には連帯責任を負わせ、また密告を奨励すること上奏し、これによって全国の成人男子・戸数は大幅に計上されることになった。煬帝は裴蘊を賞賛し、彼を親任するようになった。まもなく[[御史大夫]]となり、[[蘇威]]・[[宇文述]]・[[裴矩]]・[[虞世基]]らとともに朝政をつかさどり、人々から「五貴」と称された。