「藤原北夫人」の版間の差分

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夫人は天平12年([[740年]])3月15日奧付の『阿難四事経』を残しており、その中に、父親の考贈左大臣府君(房前)らのために、[[一切経]]律論を書写し、この日荘厳の終了した旨を述べている。この時も正三位<ref>『寧楽遺文』下巻616頁</ref><ref>『大日本古文書』巻二 - 253頁</ref><ref>『日本写経綜鑒』126頁</ref>。これは光明皇后の[[五月一日経]]に先立つ[[写経]]で、女性発願一切経の最初と言われている。『古写経綜鑒』には、光明皇后の願経とともに当時の上流婦人の信仰を語るものとして意義が深く、書風においても、線の堅い扁平の結体をとりながら闊達な筆致は隋唐合体の進展として、高く評価している。夫人家の写経はさらに十数年続いている。
 
天平17年([[745年]])正月、母親の[[牟漏女王]]の膳違和により、[[興福寺]]講堂の[[不空羂索観音]]像を造り、神哭経1千巻を写そうとし、[[藤原仲麻呂]]の協力でその願を果たしたと言われている<ref>『[[政事要略]]』巻廿五</ref>
 
[[天平勝宝]]6年([[754年]])、[[造東大寺司]]より、藤原夫人家務所への[[牒]]があり<ref>『大日本古文書』巻四 - 38頁</ref>、[[天平宝字]]2年([[758年]])11月の[[伊賀国|伊賀]][[国司]][[解 (公文書)|解]]によると、伊賀国[[阿拝郡]]柘植郷の[[市原王]]の地の西南角界に家務所があったという<ref>『寧楽遺文』下巻651頁</ref><ref>『大日本古文書』巻四 - 350頁</ref><ref>『東南院文書』巻二 - 91頁</ref>。