「島津忠清」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m →‎脚注: 修正
m編集の要約なし
7行目:
 
 
妻のカタリナは[[キリシタン]]であり、領内で禁教の信徒を多数保護しており、藩から度々注意をされていた。忠清の死後の寛永10年(1633年)、カタリナは[[種子島]]大長野に流刑となり、閉門蟄居として[[種子島忠時]]の監視下となった。寛永16年(1639年)に[[伊勢貞昌]]を通して[[法華宗]]に宗旨替えをしたと届けたが、表面上の棄教であるとして認められなかった。同年に連れ子の娘([[喜入忠政]]室)およびその娘([[基多村久茂|基多村久智(島津久茂)]]室および御鶴)も同島に流罪となっている。慶安2年(1649年)に死去。法号は成等院妙正大姉。ただし流刑とはいえ藩主の血縁であり齟齬粗末には扱われておらず、時折の音信もあり、死去時は孫で藩主の[[島津光久]]からの使者が香典を奉納している。