「サモ王国」の版間の差分

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[[パンノニア]]に住み着いた[[アヴァール人]]は、560年代に先住民のスラヴ人([[ヴェンド人]])を支配下に置いた。ヴェンド人は度々アヴァール人に対し反乱を試みており、サモは彼らに武器を提供するフランク人商人だったとされる。偽フレデガリウス年代記によればサモがヴェンド人の土地に赴いたのは623年ごろのことである{{Sfn|Curta|2001|p=109}}が、この年代には疑問が残る。ヴェンド人の反乱が起きたのは、626年にアヴァール人が[[コンスタンティノープル包囲戦 (626年)|コンスタンティノープル包囲戦]]に敗れた後だからである{{Sfn|Curta|2001|p=109}}。どちらにせよヴェンド人の反乱の中でサモは彼らの指導者となってアヴァール人を破り{{Sfn|Curta|2001|p=109}}、王(rex)に選出された{{Sfn|Curta|2001|p=330}}。サモは有力なヴェンド人の家系と婚姻関係を結ぶことで、自らの地位を強固なものとした。彼は少なくとも12人の女性と結婚し、22人の息子と15人の娘がいた。{{Sfn|Curta|2001|p=331}}
 
630年から631年にかけて、ヴェンド人の公[[ヴァルク]](''{{Lang|la|Wallucus dux Winedorum}}'')という人物が史料上に登場する<ref>{{Cite book|title=Radovi|url=https://books.google.com/books?id=tLBnAAAAMAAJ|year=1976|publisher=Institut|quote=Ta sve što znamo o Samu i Slavenima u Samovu regnumu znamo jedino po Fredegaru kao primarnom povijesnom vrelu. Iznoseći neke detalje koji se datiraju sa 631. god. Fredegar spominje »marca Vinedorum«, Wallucus-dux Winedorum, ...|volume=8-9}}</ref>。彼は後にカランタニア辺境領を形成するスラヴ人の集団の人物であるともいわれている。彼はサモを打倒するため、南西の[[ランゴバルド人]]に自らの領地の通過を許可した。ランゴバルド人は[[フランク王の一覧|フランク王]][[ダゴベルト1世 (フランク王)|ダゴベルト1世]]と対サモ同盟を結んでいた。これが史実であれば、ヴァルクの領土はサモ王国の支配外にあったことになる。
 
631/2年、フランク王ダゴベルト1世はアウストラシア軍を中心とするフランク軍を率いて東方遠征をおこなった{{Sfn|Curta|2001|p=109}}。サモは[[ヴォガスティスブルクの戦い]]でフランク軍に大勝し、逆に数回にわたりフランク王国の[[テューリンゲン州|テューリンギア]]に侵攻、略奪した<ref>[http://www.e-stredovek.cz/view.php?cisloclanku=2006011101 Kronika tzv. Fredegara scholastika]</ref>。この後、それまでフランク人に服属していた[[ソルブ人]]の公[[デーヴァン]](''{{Lang|la|dux gente Surbiorum que ex genere Sclavinorum}}'')がサモ率いる部族連合のもとに参じた{{Sfn|Curta|2001|pp=109, 331}}。ソルブ人は[[ザーレ川]]の東に住んでおり、デーヴァンは積極的にフランク王国に侵攻して、631年から634年にかけてテューリンギアを荒らしたが、636年にテューリンギア公[[ラドゥルフ (テューリンギア王)|ラドゥルフ]]に敗れた。