「ボルコ2世マウィ」の版間の差分

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| 埋葬日 =
| 埋葬地 = [[グリュッサウ修道院]]
| 配偶者1 = [[アグネス・フォン・ハプスブルク (1322-1392)|アグネス・フォン・ハプスブルク]]
| 子女 =
| 家名 = [[シロンスク・ピャスト家]]
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| サイン =
}}
[[File:Boleslaus II the Short, of Silesia.jpg|thumb|ボルコ2世マウィ(16世紀)]]
'''ボルコ2世マウィ'''(Bolko II Mały、[[1312年]]頃 - [[1368年]][[7月28日]])は、[[シロンスク・ピャスト家]]最後の独立諸公。[[シフィドニツァ]]公(在位:[[1326年]] - 1368年)、[[ヤヴォル公国|ヤヴォル]]=[[ルヴヴェク]]公(在位:[[1346年]] - 1368年)、[[ルサティア]]公(在位:[[1364年]] - 1368年)、[[ブジェク公国|ブジェク]]半国及び[[オワヴァ]]の公(在位:[[1358年]] - 1368年)、[[シェヴィエシュ]]公(在位:[[1359年]] - 1368年)、[[グウォグフ公国|グウォグフ]]半国及び[[シチナヴァ]]半国の公(在位:[[1361年]] - 1368年)。シフィドニツァ公[[ベルナルト (シフィドニツァ公)|ベルナルト]]の長男、母は[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ1世]]の娘[[クネグンダ・ウォキェトクヴナ|クネグンダ]]。マウィ(Mały)は「小さい」を意味する異称。
 
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[[1336年]]、ボルコ2世の同名の叔父であるジェンビツェ公ボルコ2世がボヘミア王に臣従し、ジェンビツェ公は臣従と引き換えに[[クウォツコ|グラーツ郡]]を獲得した。この臣従はポーランドの新国王[[カジミェシュ3世 (ポーランド王)|カジミェシュ3世]]が、シロンスクに対する要求権の一部を放棄したことに乗じて行われたものであった。
 
孤立状況に追い込まれながら、ボルコ2世はポーランド、ハンガリーと共に反ボヘミア同盟を結成するための策動を続けた。自らの国際的地位を高めるため、[[1338年]][[6月1日]]、ボルコ2世は[[ハプスブルク家]]の一員である[[オーストリア君主一覧|オーストリア公]][[レオポルト1世 (オーストリア公)|レオポルト1世]]の娘[[アグネス・フォン・ハプスブルク (1322-1392)|アグネス]]と結婚した。ハプスブルク家は[[ルクセンブルク家]]の主要なライバルであり、[[オーストリア]]と[[シュタイアーマルク州|シュタイアーマルク]]を獲得して力を増していた新興貴族家門であった。地位向上は早くも効果を現し、ボルコ2世の領国に住む商人達は[[ハールィチ]]周辺まで取引範囲を広げることが出来るようになった。[[1345年]][[1月1日]]、ボルコ2世の外交努力は実を結び、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世、ポーランド王カジミェシュ3世、ハンガリー王[[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]](カーロイ1世の息子)の公式の同盟が成立した。
 
=== ポーランド王カジミェシュ3世によるボヘミア遠征 ===