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'''日本占領時期のインドネシア'''(にほんせんりょうじきのインドネシア、英:Japanese-occupied Dutch East Indies)では、[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]]3月から[[1945年]]9月終戦にかけて[[大日本帝国]]が占領した「'''蘭印'''」と通称される当時の[[オランダ領東インド]](現在の[[インドネシア]])について説明する。
 
この時期はインドネシア史における重要な時代のひとつである。オランダ領東インドは1819年以来[[オランダ]]の植民地にされていた。しかし、ドイツによってオランダ本国が1940年に占領されたため、オランダは[[大日本帝国軍]]に対抗して同植民地を守る能力がほとんどなく、1942年3月9日にオランダ軍は降伏した<ref name="Klemen Borneo">Klemen, L. (1999-2000). "[https://dutcheastindies.webs.com/borneo.html The conquer of Borneo Island, 1941-1942]". Dutch East Indies Campaign website.</ref>{{Sfn|桐山, 栗原, 根本|2019|p=163}}。日本政府の対インドネシア政策は、1941年の[[御前会議]]の時点で「治安回復、早期資源獲得、軍部隊の現地自活」が決定しており、インドネシアから資源と労働力を得るのが目的だった。中でも最も重要な資源は[[石油]]だった{{Sfn|桐山, 栗原, 根本|2019|p=159}}{{Sfn|宮本|2003|pp=195-196}}。当初のインドネシア人は、オランダの植民支配からの解放者として日本側を歓迎し<ref name=mizu>{{Harvnb|水間|2013|pp=49-68}}</ref>、日本はオランダが禁止していた「インドネシア」という呼称を公の場で使用することを解禁した<ref name=mizu/>。しかしインドネシアの民族旗や、民族歌「インドネシア・ラヤ」は禁止された{{Sfn|桐山, 栗原, 根本|2019|pp=163-165}}。
 
日本軍は、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]との戦いで勝利を得るための戦略とはいえ、オランダ同様に結社や集会、政治に関する言論、行動および民族旗使用の禁止を布告し、インドネシア民衆の期待を裏切ったこともあった(その後は民族結集組織を全国に作っている<ref name="Henry">「インドネシア独立に果たした日本の功績」{{Harvnb|ヘンリー|2012|pp=213-221}}</ref>)<ref name="haga19">{{Harvnb|芳賀|2007|pp=17-19}}</ref>。またインドネシア人にとっては厳しい規律の日本式の軍政や[[皇民化]]が施され、[[飢饉]]を招いた籾の強制供出、防衛強化のための[[ロームシャ]]と呼ばれる過酷な重労働を課せられた者もあり、戦時下の艱難辛苦に耐えるよう期待されていることを彼らが悟るにつれ、その感情は変化していった「負」の側面もあった<ref name="haga19"/>。こうした立場の違いにより功罪の両方の意見や認識があるものの、厳しい教育により優秀な人材が育成されたことや、英語やオランダ語ではなく[[インドネシア語]]が公用語になったことなど、日本の軍政施策が結果的にインドネシアやインドネシア民衆のために役立った「正」の面があることも重要な事実である<ref name="haga19"/><ref name=mizu/>。[[国際連合]]の報告では、日本軍占領中の飢饉と強制労働によってインドネシアでは約400万人が死亡したとされる<ref name="Dower 1986">Cited in: Dower, John W. ''War Without Mercy: Race and Power in the Pacific War'' (1986; Pantheon; {{ISBN|978-0-394-75172-6}})</ref>。
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1930年代後半、特に日中戦争以降は、日本政府はアメリカやイギリスに対する経済的依存からの脱却と資源の確保を計画した。そのためにインドネシアも戦略上の構成要素とされ、[[第2次近衛内閣]]は1940年8月16日の[[南方経済施策要綱]]にもとづいて8月28日に[[対蘭印物資取得並貿易方策要綱]]を策定した。1940年9月からの第二次[[日蘭会商]]では、日本は石油をはじめとして資源確保をオランダに要求したが、同時期の[[日独伊三国同盟]]の影響もあって1941年6月に打ち切られた{{Sfn|宮本|2003|pp=192-195}}。
 
日本政府は[[1941年]][[11月5日]]の[[御前会議]]で東南アジア占領後の基本方針が決定し、「治安回復、早期資源獲得、軍部隊の現地自活」という内容だった。日本政府は、日本が東南アジア経済圏を支える経済力を持たないことを理解していた。そのため当初から、早期資源獲得という略奪的な政策をとり、また長期的に維持する政策が存在しないために現地自活の方針が採用された{{Sfn|桐山, 栗原, 根本|2019|p=159}}。大東亜共栄圏は、日本のリーダーシップ下における一種の交易圏として説明された{{sfn|Vickers|pp=83-84}}。
 
== 侵攻 ==
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google books reference: [https://books.google.com/books?id=0OdmAAAAMAAJ&q=The+Dutch+Naval+Air+Force+against+Japan:+the+defense+of+the+Netherlands+East+Indies,+1941–1942,&dq=The+Dutch+Naval+Air+Force+against+Japan:+the+defense+of+the+Netherlands+East+Indies,+1941–1942,&source=bl&ots=cx-AkhZjou&sig=JIlOnsrVPSwPeVSMnL3s7mY3-yE&hl=en&sa=X&ei=LCgwULSBJ8itiAeJ2IHgBg&ved=0CDsQ6AEwAQ]</ref>。 著名なインドネシア人作家の[[プラムディヤ・アナンタ・トゥール]]は次のように述べている。「日本軍の到着と共にほぼ全員が希望に満ち溢れていた、例外はオランダ人のために働いていた者だけだった」<ref name="Toer 1975">Pramoedya Ananta Toer, ''The Mute's Soliloquy'', trans. Willem Samuels (New York: Penguin, 1998), pp. 74–106 (St. Lucia: University of Queensland Press, 1975). Cited in {{harvnb|Vickers|p=85}}.</ref>。
 
== 占領政策 ==
[[File:Pah Wongso's Japanese occupation registration card.jpg|thumb|占領期に現地インド人のベインハームラ・ルイ・フェキトール([[:en:Pah Wongso|en]])に発行された日本の身分証明書]]
[[File:Pah Wongso's Japanese occupation registration card.jpg|thumb|占領期に現地インド人のベインハームラ・ルイ・フェキトール([[:en:Pah Wongso|en]])に発行された日本の身分証明書]]
 
日本政府のインドネシア占領は、他の東南アジア地域と次のような点で異なっていた。 (1) 民族独立運動はオランダ植民地政府によって弾圧されており、民族主義者の間では日本のアジア解放のスローガンが期待されていた。(2) 組織的な反日活動をする指導層が存在せず、軍政が比較的安定していた。(3) 連合軍による攻撃が、一部の地域をのぞいてほとんどなく、国土が戦場にならなかった。(4) 独立を認めず、太平洋戦争まで終戦まで軍政が続いた{{efn|フィリピンやビルマでは途中で独立が認められていた{{Sfn|倉沢|2002|p=35}}。}}。(5) インドネシア独立の功労者は対日協力をした人々だった。そのためインドネシア独立後に対日協力の是非は問われず、戦後の対日感情は他の元占領地と比べると良好だった{{efn|たとえばベトナムでは日本に抵抗したゲリラ組織[[ベトミン]]の指導者だった[[ホー・チ・ミン]]が独立の中心となった。こうした国とは状況が異なる{{Sfn|倉沢|2002|p=36}}。}}{{Sfn|倉沢|2002|pp=34-36}}。
 
=== 捕虜 ===
植民地軍は収容所送りにされ、インドネシア側の兵士は解放された<ref name="koshida"/>。
日本軍による植民地運営でオランダ人管理者が維持されることを期待して、大半のオランダ人は去るのを拒んだ。ところが彼らは強制収容所に送られ、日本人またはインドネシア人の交代要員が上官および技術的地位として動員された{{sfn|Cribb & Brown|p=13}}。日本軍は港湾や郵便などのインフラおよびサービスを政府の統制とした<ref name="Taylor 2003 310"/>。10万人のヨーロッパ民間人(と若干の中国人)が拘禁されたうえ、8万人のオランダ、イギリス、オーストラリア、アメリカの同盟軍兵士が捕虜収容所に行き、そこでの死亡率は13-30%だった{{sfn|Vickers|p=87}}。
 
=== 行政 ===
日本軍は港湾や郵便などのインフラおよびサービスを政府の統制とした<ref name="Taylor 2003 310"/>。以前オランダ植民地政府に勤務していた現地公務員や、政治家で構成されたインドネシア人の支配階級は日本の軍当局と協力し、日本側はそのまま現地の政治エリートたちに権力を維持させて、新たに到着した日本の産業工場や企業および軍隊に彼らを雇用した(蘭印における補助的な軍隊や警察の上級職は日本軍によって運営されていた)。インドネシア人の協力により、日本の軍事政権は大規模な群島の水路および空路を確保することができ、その島を連合軍の攻撃(オーストラリアから襲来する可能性が最も高いと考えられる)に対する防衛拠点として使用できた<ref>Taylor (2003), p. 311</ref>。
 
日本軍はインドネシアを3つの地域に分けた。スマトラ島は[[第25軍 (日本軍)|第25軍]]の配下に置かれ、ジャワ島と[[マドゥラ島]]は[[第16軍 (日本軍)|第16軍]]の配下に、ボルネオ島とインドネシア東部は[[第二艦隊 (日本海軍)]]によって統治された。第16軍と第25軍はシンガポールに本部を構え{{sfn|Ricklefs|1991|p=199}}、統治命令がスマトラ島のみに縮小されて本部が[[ブキティンギ]]に移る1943年4月まで[[英領マレー]]を統治した。第16軍は[[ジャカルタ]]に本部を置き、第二南方艦隊は[[マカッサル]]に本部を置いた{{Sfn|桐山, 栗原, 根本|2019|p=163}}。
 
行政の実務は、基本的に日本の各省から派遣された行政官が行った。インドネシアにおいても、西暦に代わって[[皇紀]]と[[日本標準時]]が使用された。またインドネシアの民族旗の使用や、民族歌「インドネシア・ラヤ」は禁止され、国旗は日の丸・国歌は君が代とされ、公共建造物や道路などのインフラストラクチャーの名前が日本語化された。集会の自由、結社の自由、出版の自由は制限された{{Sfn|桐山, 栗原, 根本|2019|pp=163-165}}。
 
西暦に代わって[[皇紀]]と[[日本標準時]]が使用された。1942年3月27日の布告第6号により日本時間を使うと定められ、1942年4月29日の布告第15号で1942年は皇紀2602年とされた。ジャワ島と日本では1時間半の時差があるが、日本時間に合わせてインドネシア人は時計を進めなければならなかった。このために朝の暗いうちに仕事や学校が始まるなどの変化があった。1942年3月20日の布告第4号により、国旗は日の丸、国歌は[[君が代]]とされた{{Sfn|倉沢|2002|pp=37-38}}。
戦争協力組織として、民衆を相互に監視させるトナリグミ([[隣組]])、防諜と食糧流通を監視するケイボーダン([[警防団]])、女性の翼賛団体にあたるフジンカイ([[婦人会]])などが設立された{{Sfn|ルビス|1980|p=192}}。
 
=== 教育 ===
日本の価値観を植え付けるという目的で学校教育が重要とされた。オランダ植民地時代には、7年制のオランダ原住民学校と3年制の村の学校による2種類の初等教育があった。日本政府は1942年4月22日の布告第12号によって[[国民学校]]をもとにした教育を行ない、カリキュラムには日本語、日本史、修身、勤労奉仕などが加わった。奉仕の実践や思想教育が多かったため学力向上にはつながらなかったが、教授用語をインドネシア語にした点はインドネシア人に向けた変化となった{{Sfn|倉沢|2002|pp=39-40}}。
日本は官吏養成学校、師範学校、農林学校、商業学校、工業学校、医科大学、商船学校などを開校した。インドネシア人に広く高等教育を施しインドネシア語を公用語とした。また、日本語教育も行われた{{Sfn|桐山, 栗原, 根本|2019|p=165}}<ref name=mizu/>。特にジャワとスマトラで、日本人は多くの若いインドネシア人のエリートを育て、[[郷土防衛義勇軍]](PETA)も創設し軍事訓練を課して武装させ彼らの民族主義的指導者たちに国民的自覚を与えた<ref name="mizu"/>。このように、オランダ植民地体制の破壊とインドネシアの[[ナショナリズム]]促進の両方を経験させた日本の占領が、太平洋戦争での日本降伏から数日以内に[[インドネシア独立宣言]]に至るだけの状況を作った<ref name="mizu"/>。そして太平洋戦争後も残留していた有志の日本軍将兵の1,000人以上(約2,000人が残留し、その半数が戦死したとされる<ref name="Henry"/>)がその後のインドネシア独立軍に参加することになる<ref name="mizu"/>。都会の学校では、生徒にタイソー(体操)、キョーレン(教練)、キンローホーシ(勤労奉仕)を求めたが、食料不足のため倒れる生徒も出た。日本人の教官や団長は、そうした生徒をビンタによって起こそうとした{{sfn|プラムディヤ・アナンタ・トゥール|2013|p=31}}。
 
日本は官吏養成学校、師範学校、農林学校、商業学校、工業学校、医科大学、商船学校などを開校した。インドネシア人に広く高等教育を施しインドネシア語を公用語とした。また、日本語教育も行われた{{Sfn|桐山, 栗原, 根本|2019|p=165}}<ref name=mizu/>。特にジャワとスマトラで、日本人は多くの若いインドネシア人のエリートを育て、[[郷土防衛義勇軍]](PETA)も創設し軍事訓練を課して武装させ彼らの民族主義的指導者たちに国民的自覚を与えた<ref name="mizu"/>。このように、オランダ植民地体制の破壊とインドネシアの[[ナショナリズム]]促進の両方を経験させた日本の占領が、太平洋戦争での日本降伏から数日以内に[[インドネシア独立宣言]]に至るだけの状況を作った<ref name="mizu"/>。そして太平洋戦争後も残留していた有志の日本軍将兵の1,000人以上(約2,000人が残留し、その半数が戦死したとされる<ref name="Henry"/>)がその後のインドネシア独立軍に参加することになる<ref name="mizu"/>。都会の学校では、生徒にタイソー(体操)、キョーレン(教練)、キンローホーシ(勤労奉仕)を求めたが、食料不足のため倒れる生徒も出た。日本人の教官や団長は、そうした生徒を[[ビンタ]]によって起こそうとした{{sfn|プラムディヤ・アナンタ・トゥール|2013|p=31}}。
ジャワとスマトラではインドネシア人のみの軍を編成し、ジャワには[[郷土防衛義勇軍]](PETA)、スマトラにはラスカル・ラヤット(国民軍)が創設された。しかしインドネシア人を日本軍の指揮系統下とするために、兵士としての訓練はしたが将校の養成は不足した<ref name=mizu/>{{Sfn|桐山, 栗原, 根本|2019|p=166}}。
 
=== インフラストラクチャー ===
オランダ植民地時代に、1930年時点で全長5200キロメートルの鉄道と道路が建設されており、1平方キロメートルあたり5.6キロメートルで当時の日本につぐアジア第2位だった。日本軍も兵站のために西ジャワや西スマトラで新線を建設した。しかし軍の輸送に車両がとられて民需の輸送は不足し、石油も軍需が優先されたため民需のガソリンは配給制となり、車両と燃料の不足で輸送力は減退した。船舶も不足し、日本と占領地の間の輸送も困難となった。日本軍は木造船の建造を進めたが、建造数は目標を達成できず、さらにジャワ島の森林では[[チーク]]などの樹木が大量に伐採されて[[森林破壊]]を招いた{{Sfn|倉沢|2002|pp=44-45}}。
 
=== 経済 ===
[[Image:Netherlands Indies 10Guld.jpg|thumb|270px|太平洋戦争中、[[蘭領東インド]]で日本軍が使用した10グルデン[[軍票]](1942年)。[[:en:Japanese government-issued currency in the Dutch East Indies|Japanese government-issued currency in the Dutch East Indies]]も参照。]]
前述のように、日本政府は1941年11月5日の御前会議で東南アジア占領の基本方針を決定しており、インドネシア経済に対する略奪的な政策として結実した{{Sfn|桐山, 栗原, 根本|2019|p=159}}。軍事物資の石油・[[]][[ボーキサイト]]の確保、日本軍への食糧補給、そして補助兵力を現地調達するための労働力の確保が目的とされた。大東亜共栄圏という政治理念は、現地住民を協力させるための宣撫工作や教化に使われた{{Sfn|宮本|2003|pp=195-196}}。
 
流通では日本統治前から[[華僑]]を中心としており、日本軍も[[中国国民党]]を支援する者をのぞけば華僑の活動を許しており、華僑への依存は続いた{{Sfn|倉沢|2002|pp=43-44}}。
 
; 通貨
日本軍の物資調達を容易にするために、日本で印刷した[[軍用手票]](軍票)を使用した。軍票はギルダー表示であり、交換レートは円と等価で1ギルダー=1円とされた{{Sfn|倉沢|2002|p=38}}。
 
; 農業・食糧事情
日本の政策にそってインドネシアの産業が変更された。[[ジャワ島]]の主要な産業だった砂糖生産は生産が縮小され、[[サトウキビ]]畑は日本軍に米を供給するための水田や[[キャッサバ]]畑に転換された。日本政府は南方各地に米を供給するために米の増産を計画したが、日本軍による籾の強制供出制度で農民の生産意欲が減退し、日本軍の建設工事のために人手を農村からとっていたために労働力が不足していた。米の増産は失敗し、それにも関わらず大量の米を日本軍が徴発したため、インドネシア各地で食糧不足が起きた{{Sfn|倉沢|2002|pp=41-42}}。
 
; 闇経済
日本軍による徴発に加えて、1944年以降は食糧不足や輸入の途絶もあって物資不足となり、医薬品、紙、タイヤ、機械などの他に衣料品の不足が深刻となった。日本の軍政監部は組合制度を作って業者を統制しようとしたが失敗し、[[闇市]]が増える結果となった。特に米は公定価格の他に闇値で流通しており、闇市がなければさらに多数の餓死者が出たと推測されている。闇市での価格である闇値はインドネシアで「ハルガ・クーシュウ・ケイホウ」と呼ばれ、ハルガは価格、クーシュウ・ケイホウは空襲警報を指す{{efn|語源については2つの説があり、(1) 空襲警報が鳴って人影が消えると、その間に日本軍が物資を徴発するので物資不足で高値になるという説。(2) 空襲警報が鳴ると灯火を消すために暗くなり、暗い=非合法が想起されるという説がある{{Sfn|倉沢|2002|pp=42-43}}。}}{{Sfn|倉沢|2002|pp=42-43}}。
 
=== 社会構造 ===
日本は住民による政治活動を禁止する反面で、日本の認める全国的な組織を設立した{{Sfn|倉沢|2002|pp=49-50}}。戦争協力組織として、民衆を相互に監視させるトナリグミ([[隣組]])、防諜と食糧流通を監視するケイボーダン([[警防団]])、女性の翼賛団体にあたるフジンカイ([[婦人会]])などが設立された{{Sfn|ルビス|1980|p=192}}。
 
隣組は、1944年1月から導入された。組織要項によれば、郷土防衛や経済統制をする地方行政下部組織であり、軍政の浸透をはかっていた。日本軍はジャワ古来の相互扶助である[[ゴトン・ロヨン]]の精神にもとづくと説明していたが、実際には常会や行政機構とのつながりなどそれまでにない組織だった。隣組は軍政終了後もルクン・トゥタンガと呼ばれてジャワ社会で続き、政府によって条例化もされた{{Sfn|倉沢|2002|pp=47-48}}。
 
=== 強制労働 ===
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インドネシアでは少女が慰安所に連行され、ジャワ島から船でタイや昭南島(シンガポール)に送られる者もいた{{sfn|プラムディヤ・アナンタ・トゥール|2013|pp=54-59}}。日本やシンガポールに留学できるという話を聞かされて旅立った者もいた。日本軍の降伏後に女性たちは各地で置き去りにされ、故郷から離れた[[ブル島]]などの場所で暮らし続けた。1960年代に政治犯がブル島に送られるようになった際に、こうした女性たちの存在が明らかになった{{efn|プラムディヤ・アナンタ・トゥールも1970年代にそうした女性から話を聞くことができた{{sfn|プラムディヤ・アナンタ・トゥール|2013|pp=98-100}}。}}{{sfn|プラムディヤ・アナンタ・トゥール|2013|pp=30-31, 37-39}}。オランダ政府の調査は、日本軍がどのようにインドネシアで女性を慰安婦として強制雇用したかを説明した<ref>{{Harvnb|Ministerie van Buitenlandse zaken|1994|pp=6-9, 11, 13-14}}</ref>。そこでは日本軍の売春宿で働いているヨーロッパ人女性200人から300人のうち「およそ65人はほぼ確実に売春を強要された」と結論付けていた<ref>http://www.awf.or.jp/e1/netherlands.html</ref>{{要検証|date=2020年9月}}。 他の若い女性(およびその家族)は、収容所や戦時中の社会で様々な圧力に直面しており、仕事として売春提供したことは認めたが、その性質(強制的だったか否か)が明示的に述べられていないものも多い<ref>William Bradley Horton, "Comfort Women," in ''The Encyclopedia of Indonesia in the Pacific War'', Leiden:Brill, 2009, pp. 184-196</ref><ref>William Bradley Horton, [https://www.academia.edu/1425550/Pramoedya_and_the_Comfort_Women_of_Buru_A_Textual_Analysis_of_Perawan_Remaja_dalam_Cengkeraman_Militer_Teenage_Virgins_in_the_Grasp_of_the_Military_ "Pramoedya and the Comfort Women of Buru A Textual Analysis of Perawan Remaja dalam Cengkeraman Militer (Teenage Virgins in the Grasp of the Military)]", ''Journal of Asia Pacific Studies'', 2010</ref><ref>Mayumi Yamamoto, [https://www.academia.edu/32367246/Yamamoto_Hidden_Sexualities_Borneo_2014 "Hidden Sexualities and Secrecy of Prestige: The Development of Military Prostitution in Borneo"]</ref><ref>{{cite web |title=Japan's 'Comfort Women' |first=Chunghee Sarah |last=Soh |authorlink=Chunghee Sarah Soh|publisher=International Institute for Asian Studies |url=http://www.iias.nl/iiasn/18/regions/e3.html |accessdate=8 November 2013}}</ref><ref>{{cite book |title=The Comfort Women: Sexual Violence and Postcolonial Memory in Korea and Japan |page=22 |first=Chunghee Sarah |last=Soh |publisher=University of Chicago Press |year=2008 |isbn=978-0-226-76777-2 |url=https://books.google.com/books?id=GIHcaFVxXf0C&pg=PA22}}</ref><ref>{{cite web |title=Women made to become comfort women - Netherlands |publisher=Asian Women's Fund |url=http://www.awf.or.jp/e1/netherlands.html|accessdate=2019-08-16}}</ref><ref>Poelgeest. Bart van, 1993, Gedwongen prostitutie van Nederlandse vrouwen in voormalig Nederlands-Indi? 's-Gravenhage: Sdu Uitgeverij Plantijnstraat. [Tweede Kamer, vergaderjaar 93-1994, 23 607, nr. 1.]</ref><ref>Poelgeest, Bart van. "[http://www.awf.or.jp/pdf/0205.pdf Report of a study of Dutch government documents on the forced prostitution of Dutch women in the Dutch East Indies during the Japanese occupation.]" [Unofficial Translation, 24 January 1994.]</ref>。独立後にインドネシア政府は慰安婦問題に触れ、日本政府は謝罪の書簡と拠出金を行なった([[#政治家|後述]])。
 
[[インドネシア独立戦争|独立戦争]]では、独立が達成される前に数万いや数十万の人々{{Refnest|group="注釈"|独立戦争におけるインドネシア側の推定死亡者数は4万5千から10万人、そのほか民間人の死亡者数が2万5千人超で最大10万人にのぼる可能性があるとされる。詳細は英語版[[:en:Indonesian National Revolution#Impacts]]を参照。<!-- とある日本語サイトではこの犠牲者数を「80万人」と表記しているが、そこには内訳などの根拠が見られず(当方が確認する限り)犠牲者80万人の信ぴょう性は得られなかった-->}}が日本軍、連合軍、および対立するインドネシア人との戦いで死亡することになった{{sfn|Vickers|p=85}}{{sfn|Ricklefs|1993|p=207}}。後の[[国連]]報告は、日本による占領中の飢饉と強制労働の結果、インドネシアでは400万人(3万人の抑留されたヨーロッパ民間人も含む)が死亡したと主張した<ref name="Dower 1986">Cited in: Dower, John W. ''War Without Mercy: Race and Power in the Pacific War'' (1986; Pantheon; {{ISBN|978-0-394-75172-6}})</ref>。日本軍の資料によれば、ジャワ島の死者数は日本統治前の1939年には10万人あたり881人だったが、1944年には10万人あたり1423人に増加していた{{Sfn|倉沢|2002|p=42}}
 
== 文化 ==
日本軍は連合軍に対抗するために、植民地支配に抵抗したインドネシアの民族英雄の伝記を出版した。[[啓民文化指導所]]を設立し、旧世代の作家であるアリシャバナらを文化政策や宣撫工作に使った。他方で、日本の占領政策に対抗する世代も現れた。民衆の生活苦と生き様をユーラスに描く『スラバヤ』を発表したイドルスなどの作家がいる{{Sfn|ルビス|1980|p=200}}。
 
=== インドネシアの民族主義奨励 ===
== 抵抗活動 ==
[[File:Amir Sjarifoeddin.jpg|thumb|left|upright|スラバヤを中心にレジスタンスを組織した{{仮リンク|アミル・シャリフディン|en|Amir Sjarifuddin}}]]
=== ジャワ島 ===
学生(Pemuda)を地下活動に導いた[[シャフリル|スタン・シャフリル]]に次ぐ、唯一の著名な反対派政治家は左派の{{仮リンク|アミル・シャリフディン|en|Amir Sjarifuddin}}で、彼はマルクス主義者や民族主義者との関係を通して地下の[[レジスタンス運動]]を組織するため1942年初頭に25,000[[ギルダー]]をオランダ人より与えられた。1943年に日本軍がアミルを逮捕するもインドネシアで人気があったことから、戦争遂行にとっての重要性が日本側に認識されていたスカルノの介入もあって処刑をかろうじて免れた。[[スラバヤ]]に拠点を置くアミルのグループ以外で、連合側に味方する最も積極的な活動集団は、中国人、[[アンボン島]]民、[[スラウェシ島]]の[[マナド]]市民だった<ref name="Reid p12">{{cite book| last = Reid| first = Anthony| authorlink =| title = The Indonesian National Revolution 1945–1950| publisher = Longman Pty| year = 1973| location = Melbourne| isbn = 978-0-582-71046-7| page = 12}}</ref>。
 
=== カリマンタン島 ===
南カリマンタンでは、ポンティアナック事件が起きる前、インドネシア人民族主義者とオランダ人による日本軍への反乱計画が発覚した<ref>[https://books.google.com/books?id=5oO6AAAAIAAJ&q=In+brief,+the+Japanese+had+discovered+a+plot+of+Dutch+and+Indonesian+nationalists+in+South+Kalimantan;+similar+intrigue+was+then+'found%22+in+operation+in+Pontianak.+It+was+announced+in+a+Malay+language+newspaper+that+the+plotters+were&dq=In+brief,+the+Japanese+had+discovered+a+plot+of+Dutch+and+Indonesian+nationalists+in+South+Kalimantan;+similar+intrigue+was+then+'found%22+in+operation+in+Pontianak.+It+was+announced+in+a+Malay+language+newspaper+that+the+plotters+were&hl=en&sa=X&ei=UwwiUpnPG6mlsQS-34G4CA&ved=0CCwQ6AEwAA Davidson 2002], p. 78.</ref>。一部の資料によると、これは1943年9月に南カリマンタンの{{仮リンク|アムンタイ|id|Amuntai}}で起こり、イスラム国家の創設や日本人の追放が含まれていたが、同計画は(日本軍によって)潰された<ref name="Ricklefs 2001">[https://books.google.com/books?id=0GrWCmZoEBMC&pg=PA252&dq=amuntai+japanese&hl=en&sa=X&ei=cyZDU96IPIWw2gWY3oCgCg&ved=0CEwQ6AEwBg#v=onepage&q=amuntai%20japanese&f=false Ricklefs 2001], p. 252.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=5Qf39DpguysC&pg=PA124&dq=Amuntai+South+Kalimantan+drive+Japanese+out+Islamic+state+1944+Muslims+killed+Japanese&hl=en&sa=X&ei=MSZDU6jCJuaA2AXP6YDQCA&ved=0CCwQ6wEwAA#v=onepage&q=Amuntai%20South%20Kalimantan%20drive%20Japanese%20out%20Islamic%20state%201944%20Muslims%20killed%20Japanese&f=false Federspiel 2007], p. 124.</ref>。
 
1943年に、日本軍は王族の一員である[[スルターン]]のTengku Rachmadu'llahを処刑した<ref>{{cite web |url=http://www.royalark.net/Indonesia/serdang.htm |title=SERDANG |last1=Buyers |first1= Christopher |date=January 2002 - January 2013 |website=The Royal Ark |publisher=Christopher Buyers |accessdate=2019-08-16 |quote=}}</ref>。1943-44年の[[ポンティアナック事件]](マンドール事件としても知られる)にて、日本軍はカリマンタンでマレーのスルターン全員を含むマレー人エリートおよびアラブ人、中国人、インドネシア人<!--英語版原文では、ジャワ人、マナド人、ダヤク人、ブギス人、バタク人、ミナンカバウ人、と各地列挙されているが、分かりづらいため一括でインドネシア人とした-->、オランダ人、インド人、ユーラシア人の大量逮捕を行った。彼らは日本の統治を倒そうと企てたことで告発され、その後全員処刑された<!--英語版原文ではmassacre(大虐殺)という単語が使われている--><ref>[https://books.google.com/books?id=4WK2s2ogHEAC&pg=PA204&dq=A+list+of+the+condemned+conspirators+followed;+they+included+Malays,+Bugis,+Javanese,+Minangkabaus,+Bataks,+Menadonese,+Chinese,+Eurasians,+and+...+Prominent+on+the+list+were+the+native+rulers,+who+were+entirely+wiped+out+in+this+action.&hl=en&sa=X&ei=uStDU5aKFZDlyAHYw4CoCw&ved=0CCkQ6AEwAA#v=onepage&q=A%20list%20of%20the%20condemned%20conspirators%20followed%3B%20they%20included%20Malays%2C%20Bugis%2C%20Javanese%2C%20Minangkabaus%2C%20Bataks%2C%20Menadonese%2C%20Chinese%2C%20Eurasians%2C%20and%20...%20Prominent%20on%20the%20list%20were%20the%20native%20rulers%2C%20who%20were%20entirely%20wiped%20out%20in%20this%20action.&f=false Heidhues 2003], p. 204.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=RzVUOidajPAC&pg=PA42&dq=Pontianak+incident&hl=en&sa=X&ei=MCBDU6emFsa02AWru4DABA&ved=0CDYQ6AEwAg#v=onepage&q=Pontianak%20incident&f=false Ooi 2013], p. 42.</ref>。イスラーム教の{{仮リンク|ペムダ・ムハマディヤ|id|Pemuda Muhammadijah}}などの民族集団や組織のすべてが日本軍を転覆させて「西ボルネオ人民共和国(Negara Rakyat Borneo Barat)」を創設する計画に関与していた、と日本軍はうそぶいて主張した<ref>[https://books.google.com/books?id=4WK2s2ogHEAC&pg=PA205#v=onepage&q&f=false Heidhues 2003], p. 205.</ref>。日本軍は 「互いに敵対していたスルターン、中国人、インドネシア政府関係者、インド人、アラブ人が、日本軍を皆殺しにするため一丸となった」と主張し、計画された反乱の「首謀者」の一人として[[ポンティアナック]]のスルターンを名指しした<ref>[https://books.google.com/books?id=NZWqvMBu80kC&pg=PA160&dq=October+23+1943+Japanese+Sultan&hl=en&sa=X&ei=aSlDU4vMGufS2AWf1IEQ&ved=0CDAQ6wEwAA#v=onepage&q=October%2023%201943%20Japanese%20Sultan&f=false ed. Kratoska 2013], p. 160.</ref>。最大25人の貴族、ポンティアナックのスルターンの親族、ほか多くの著名人が計画の参加者として日本側に名指しされ、その後マンドール(Mandor)にて処刑された<ref>[https://books.google.com/books?id=5oO6AAAAIAAJ&q=Japanese+insti+gated+a+series+of+roundups+and+executions.+Victims+included+the+Sultan+of+Pontianak+(Syarif+Muhammad+Aiqadri),+dose+family+members+and+regional+nobles.+139+Intellectuals,+party+leaders+and+merchants+from+multiple+ethnic&dq=Japanese+insti+gated+a+series+of+roundups+and+executions.+Victims+included+the+Sultan+of+Pontianak+(Syarif+Muhammad+Aiqadri),+dose+family+members+and+regional+nobles.+139+Intellectuals,+party+leaders+and+merchants+from+multiple+ethnic&hl=en&sa=X&ei=TA8iUv6THKa2sQSejYGQBg&ved=0CC4Q6AEwAA Davidson 2002], p. 79.</ref><ref>[http://www.ari.nus.edu.sg/docs/wps/wps03_009.pdf Davidson 2003] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140518224034/http://www.ari.nus.edu.sg/docs/wps/wps03_009.pdf |date=18 May 2014 }}, p. 9.</ref>。ポンティアナックのほかにも、サンバス、ケタパン、メンパワなど各地のサルターン<!--Sambas, Ketapang, Soekadana, Simbang, Koeboe, Ngabang, Sanggau, Sekadau, Tajan, Singtan, and Mempawa で、サルターンの名前はSjarif Mohamed Alkadri, Mohamad Ibrahim Tsafidedin, Goesti Saoenan, Tengkoe Idris, Goesti Mesir, Sjarif Saleh, Goesti Abdoel Hamid, Ade Mohamad Arif, Goesti Mohamad Kelip, Goesti Djapar, Raden Abdul Bahri Danoe Perdana, and Mohammed Ahoufiek.羅列過剰なので3例+各地とした-->全員が日本軍によってそれぞれ処刑された<ref>[https://books.google.com/books?id=KnNVw8WjhAoC&pg=PA167&dq=Pontianak+incident+Mohamad&hl=en&sa=X&ei=-yBDU4GcM-eD2AWgwoGgCw&ved=0CCsQ6AEwAA#v=onepage&q=Pontianak%20incident%20Mohamad&f=false ed. Kratoska 2002], pp.&nbsp;167?168.</ref>。この事案は「12Dokoh(ジャワ語で12の垂れ飾り)」として知られている<ref>[https://books.google.com/books?id=DSDCzK6WbiUC&pg=RA1-PT62&dq=Pontianak+incident+Mohamed&hl=en&sa=X&ei=iyNDU6isKeewyQGwr4GQCQ&ved=0CDAQ6AEwAQ#v=onepage&q=Pontianak%20incident%20Mohamed&f=false Ooi 2013.]</ref>。
 
日本軍はシャリフ・モハマド・アルカドリというスルターンの息子である{{仮リンク|シャリフ・アブドゥル・ハミド・アルカドリ|en|Syarif Hamid II of Pontianak}}を投獄した<ref>[https://books.google.com/books?id=RzVUOidajPAC&pg=PA176&dq=Pontianak+incident+Mohamad&hl=en&sa=X&ei=-yBDU4GcM-eD2AWgwoGgCw&ved=0CDAQ6AEwAQ#v=onepage&q=Pontianak%20incident%20Mohamad&f=false Ooi 2013], p. 176.</ref>。処刑時期にジャワにいたため、このハミド2世は彼の家族の中で殺されなかった唯一の男性となったが、他方で日本軍はポンティアナックのスルターンであるムハンマド・アルカドリの男性親族28人全員を処刑した<ref>[http://www.iias.nl/sites/default/files/iias_nl56_0607_0.pdf Zweers 2011], p. 6.</ref>。日本軍によって処刑されたポンティアナックのスルターンの親族29人の中には、ポンティアナックの王位継承者がいた<ref>[http://www.hubert-herald.nl/IndoPontianak.htm Vries 2010.]</ref>。1944年後半に、同事件に関与しておりその残虐行為で知られていた、ナカタニという名前の日本人男性を[[ダヤク族]]が暗殺した。ポンティアナック・ムハンマド・アルカドリの4番目の息子、ペンゲラン・アゴーンともう一人の息子ペンゲラン・アディパティが、この事件で日本軍に殺害された<ref>[https://books.google.com/books?id=NZWqvMBu80kC&pg=PA168&dq=Pontianak+incident+mohammed&hl=en&sa=X&ei=TiNDU9DCNKPEyQHCiIGQBw&ved=0CCkQ6AEwAA#v=onepage&q=Pontianak%20incident%20mohammed&f=false ed. Kratoska 2013], p. 168.</ref>。日本側は公開処刑にて、この両名を斬首した<ref>[https://books.google.com/books?id=4WK2s2ogHEAC&pg=PA207&lpg=PA207&dq=sultans+beheaded+japanese&source=bl&ots=9pZ_6cLVKz&sig=aLbnGYYJ6LWA279-I3GYWBBV6zo&hl=en&sa=X&ved=0CFQQ6AEwCTgUahUKEwj8teanoNHGAhWMmYAKHVAwAKA#v=onepage&q=sultans%20beheaded%20japanese&f=false Heidhues 2003,] [https://books.google.com/books?id=4WK2s2ogHEAC&pg=PA207&lpg=PA207&dq=sultans+beheaded+japanese&source=bl&ots=9pZ_6cLVLz&sig=TlTsoj7VqIKJ6bAvmK8L85kZHpM&hl=en&sa=X&ved=0CB0Q6AEwADgeahUKEwjSzamsoNHGAhVGOj4KHeKLDFQ#v=onepage&q=sultans%20beheaded%20japanese&f=false p. 207.]</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=jVTwr9bYYukC&pg=PA86&lpg=PA86&dq=sultans+beheaded+japanese&source=bl&ots=7oDBWpO9jv&sig=PgLRwDvdToyN5CaNFVaH61lDqrk&hl=en&sa=X&ved=0CB0Q6AEwADgKahUKEwiywZyIoNHGAhVEjQ0KHXIbAa4#v=onepage&q=sultans%20beheaded%20japanese&f=false Felton 2007], p. 86.</ref>。
 
日本軍によるポンティアナックのマレー人エリートの殲滅は、代わりに新たなダヤク族エリート出現の道を作った<ref>[https://books.google.com/books?id=wpJGooepEMYC&pg=PA37&dq=Mandor+affair&hl=en&sa=X&ei=ESlDU-aOCOSw2wXa-4HABw&ved=0CDMQ6AEwAA#v=onepage&q=Mandor%20affair&f=false Davidson 2009], p. 37.</ref>。メアリー・F・ソマーズ・ヘイドゥーズによると、1945年5月から6月にかけて、{{仮リンク|サンガウ|en|Sanggau}}にいた何人かの日本人がダヤク族による反乱で殺害された<ref>[https://books.google.com/books?id=4WK2s2ogHEAC&pg=PA206#v=onepage&q&f=false Heidhues 2003], p. 206.</ref>。ジェイミー・S・デヴィッドソンによると、多くのダヤク族および日本人が殺害されたこの反乱は1945年4月から8月にかけて起こり、「マジャン村(Majang Desa)戦争」と呼ばれた<ref>[http://www.ari.nus.edu.sg/docs/wps/wps03_009.pdf Davidson 2003] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140518224034/http://www.ari.nus.edu.sg/docs/wps/wps03_009.pdf |date=18 May 2014 }}, p. 8.</ref>。ポンティアナック事件は、学者によって2つの事件に分けられ、異なる日にいくつかの段階で発生した集団殺害や逮捕に従って様々に分類されている。このポンティアナック事件はカリマンタンにいる中国人コミュニティに悪影響を与えた<ref>[https://books.google.com/books?id=NZWqvMBu80kC&pg=PA165&dq=Pontianak+incident&hl=en&sa=X&ei=MCBDU6emFsa02AWru4DABA&ved=0CCsQ6AEwAA#v=onepage&q=Pontianak%20incident&f=false ed. Kratoska 2013], p. 165.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=CKNrSgSaNgAC&pg=PA42&dq=Pontianak+incident&hl=en&sa=X&ei=MCBDU6emFsa02AWru4DABA&ved=0CDAQ6AEwAQ#v=onepage&q=Pontianak%20incident&f=false Hui 2011], p. 42.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=IzVFAQAAIAAJ&q=Pontianak+incident&dq=Pontianak+incident&hl=en&sa=X&ei=MCBDU6emFsa02AWru4DABA&ved=0CEYQ6AEwBQ Koninklijk Instituut voor Taal-, Land- en Volkenkunde (Netherlands). Afdeling Documentatie Modern Indonesie 2001], p. 41.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=T9A6BEmfkn8C&pg=PA75&dq=Pontianak+incident&hl=en&sa=X&ei=MCBDU6emFsa02AWru4DABA&ved=0CEoQ6AEwBg#v=onepage&q=Pontianak%20incident&f=false Baldacchino 2013], p. 75.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=VwNeusDwx9wC&pg=PA119&dq=Pontianak+incident&hl=en&sa=X&ei=MCBDU6emFsa02AWru4DABA&ved=0CEEQ6AEwBA#v=onepage&q=Pontianak%20incident&f=false Sai & Hoon 2013], p. 119.</ref>。
 
=== スマトラ島 ===
[[アチェ州]]の[[ウラマー]](イスラム法学者)は、1942年2月にオランダ側と対立して反乱を、そして1942年11月には日本側と対立して反乱を起こし、オランダ軍と日本軍の両方と戦った。この反乱は全アチェ宗教学者協会(PUSA)により主導された。この暴動で日本人は18名が死亡したが、他方で日本軍はアチェ人を最大100人または120人超にわたり大量殺害した<ref name="Ricklefs 2001"/><ref>[https://books.google.com/books?id=RcdwAAAAMAAJ&q=In+November+1942,+the+Japanese+found+themselves+putting+down+a+local+rebellion+against+their+rule+carried+out+by+the+same+Acehnese+who+had+removed+the+Dutch+to+make+way+for+their+arrival.+One+leader+of+a+religious+school+in+Cot+Plieng,+...&dq=In+November+1942,+the+Japanese+found+themselves+putting+down+a+local+rebellion+against+their+rule+carried+out+by+the+same+Acehnese+who+had+removed+the+Dutch+to+make+way+for+their+arrival.+One+leader+of+a+religious+school+in+Cot+Plieng,+...&hl=en&sa=X&ei=yydDU4riG6uG3AWk4oCIBA&ved=0CCkQ6AEwAA Martinkus 2004], p. 47.</ref>。この反乱はバユで発生し、Tjot Plieng村の宗教学校を中心に起こった<ref>[https://books.google.com/books?id=3NETAQAAMAAJ&q=When+the+resistance+of+the+religious+school+of+Tjot+Plieng+in+Bayu+was+ended+in+November+1942,+over+100+Acehnese+were+massacred,+18+Japanese+died,+and+yet+another+conqueror+had+learned+the+penalty+of+trying+to+deal+with+Aceh+by+force&dq=When+the+resistance+of+the+religious+school+of+Tjot+Plieng+in+Bayu+was+ended+in+November+1942,+over+100+Acehnese+were+massacred,+18+Japanese+died,+and+yet+another+conqueror+had+learned+the+penalty+of+trying+to+deal+with+Aceh+by+force&hl=en&sa=X&ei=pydDU67DG8OY2QXWrIHQCQ&ved=0CCsQ6AEwAA "Tempo: Indonesia's Weekly News Magazine, Volume 3, Issues 43-52" 2003], p. 27.</ref><ref>http://www.atjehcyber.net/2011/08/sejarah-jejak-perlawanan-aceh.html</ref><ref>[http://issuu.com/waspada/docs/waspada__sabtu_17_maret_2012/3 Pepatah Lama Di Aceh Utara]</ref><ref>[http://issuu.com/waspada/docs/waspada__sabtu_17_maret_2012 Pepatah Lama Di Aceh Utara]</ref>。同反乱中の11月10日と13日に、迫撃砲と機関銃で武装した日本軍はBuloh Gampong TeungahおよびTjot Plieng村にて、トンクゥ・アブドゥル・ジャリルの下で刀を振るうアチェ人に襲撃された<ref>[https://books.google.com/books?ei=nCx5U46bJvSlsQSPtYGACQ&id=BiTjAAAAMAAJ&dq=On+the+10th+and+13th+of+November+191*2+rebellion+broke+out+at+the+villages+of+Tjot+Plieng+and+Buloh+Gampong+Teungah+in+Acheh%2C+where+Teungku+Abduldjalil%27s+band+had+made+a+sword+attack+against+the+Japanese+machine-guns+and+mortars%2C+inspired+by+religious+fanaticism.&focus=searchwithinvolume&q=tjot+plieng "Berita Kadjian Sumatera: Sumatra Research Bulletin, Volumes 1-4" 1971], p. 35.</ref><ref>[https://books.google.com/books?ei=US55U6S6JsLgsASl3IGwDQ&id=v3kDBvr5UeYC&dq=Pemberontakan+dipimpin+oleh+kiai+muda%2C+Tengku+Abdul+Djalil%2C+guru+mengadji+di+Tjot+Plieng.+Ia+berontak%2C+sedangkan+kiai2+kebanjakan+masih+berpropaganda+untuk+Djepang.+Tanggal+10+November+tentara+Djepang+menjerang+pertahanannja+...&focus=searchwithinvolume&q=tjot+plieng Nasution 1963], p. 89.</ref><ref>[https://books.google.com/books?ei=eC55U-ydEKLKsQSHk4KoCg&id=cKbQAAAAMAAJ&dq=Tjot+Plieng+dibawah+pimpinan+Tengku+Abdul+Djalil%2C+guru+mengadji+di+Tjot+Pliengr+%28Atjeh%3B+awal+Nopember+1942%29+%3A+Pontianak+%28Kalimantan%3B+Oktobcr+1943%29.+Dua+peleton+PETA+dibawah+pimpinan+Teuku+Hamid+dari+M?-+rudu+%28Atjeh%3B+Nopember+...&focus=searchwithinvolume&q=Tjot+Plieng "Sedjarah Iahirnja Tentara Nasional Indonesia" 1970], p. 12.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=9AE5AQAAIAAJ&q=guru+agama+di+Tjot+Plieng+jang+bernama+Tengku+Abdul+Djalfl.+Meskipun+mereka+hanja+bersendjatakan+rentjong,+tombak+dan+beberapa+putjuk+senapan+tua,+namun+berkat+semangat+djihad+fi+sabilillah+itu+mereka+telah+bisa+memukul+mundur+...&dq=guru+agama+di+Tjot+Plieng+jang+bernama+Tengku+Abdul+Djalfl.+Meskipun+mereka+hanja+bersendjatakan+rentjong,+tombak+dan+beberapa+putjuk+senapan+tua,+namun+berkat+semangat+djihad+fi+sabilillah+itu+mereka+telah+bisa+memukul+mundur+...&hl=en&sa=X&ei=wy55U4vpJLXLsQSa_IDYDg&ved=0CC0Q6AEwAA "20 &#91;i. e Dua puluh&#93; tahun Indonesia merdeka, Volume 7"], p. 547.</ref><ref>[https://books.google.com/books?ei=Hi55U-XHCuapsQTikICQCg&id=KOyzISuyJlwC&dq=Dalam+tahun+1942+neletus+pemberontakan+di+Atjeh%2C+jakni+tak+lama+setelah+Djepang+nenduduki+daerah+itu%2C+Pembe+-+rontakan+itu+dipimpin+oleh+Kiai+Muda+Tengku+Abdul+Dja-+lil%2C+guru+nengadji+di+Tjot+Plieng%2C+Ia+nemberontak+pada+saat+2+k+ia+i+2&focus=searchwithinvolume&q=tjot+plieng "Sedjarah TNI-Angkatan Darat, 1945-1965. &#91;Tjet. 1.&#93;" 1965], p. 8.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=QtsRAAAAMAAJ&q=guru+agama+di+Tjot+Plieng+jang+bernama+Tengku+Abdul+Djalfl.+Meskipun+mereka+hanja+bersendjatakan+rentjong,+tombak+dan+beberapa+putjuk+senapan+tua,+namun+berkat+semangat+djihad+fi+sabilillah+itu+mereka+telah+bisa+memukul+mundur+...&dq=guru+agama+di+Tjot+Plieng+jang+bernama+Tengku+Abdul+Djalfl.+Meskipun+mereka+hanja+bersendjatakan+rentjong,+tombak+dan+beberapa+putjuk+senapan+tua,+namun+berkat+semangat+djihad+fi+sabilillah+itu+mereka+telah+bisa+memukul+mundur+...&hl=en&sa=X&ei=wy55U4vpJLXLsQSa_IDYDg&ved=0CDUQ6AEwAQ "20 tahun Indonesia merdeka, Volume 7"], p. 545.</ref><ref>Atjeh Post, Minggu Ke III September 1990. halaman I & Atjeh Post, Minggu Ke IV September 1990 halaman I</ref>。1945年5月、アチェ人は再び反乱を起こした<ref>[https://books.google.com/books?id=BpZuAAAAMAAJ&q=village+and+the+mosque+at+the+beginning+of+November.+In+the+fighting+that+ensued,+18+Japanese+were+killed+and+more+than+120+Acehnese+perished.+Furthermore+a+local+revolt+broke+out+in+Aceh+in+May+1945.&dq=village+and+the+mosque+at+the+beginning+of+November.+In+the+fighting+that+ensued,+18+Japanese+were+killed+and+more+than+120+Acehnese+perished.+Furthermore+a+local+revolt+broke+out+in+Aceh+in+May+1945.&hl=en&sa=X&ei=IShDU8LuGKbO2wWG5YCIDQ&ved=0CCsQ6AEwAA Jong 2000], p. 189.</ref>。
 
=== インドネシアの民族主義奨励 ===
<!-- このセクションは、自分達の戦争遂行のためインドネシア人を動員している日本人、このことがインドネシアの民族主義に及ぼした影響、そして来るべき独立と革命闘争にむけた意義に関する議論となるよう拡張されるべきである。(英語版より翻訳) -->
[[File:COLLECTIE TROPENMUSEUM Indonesische jongens tijdens hun soldatentraining door de Japanners TMnr 10001989.jpg|thumb|[[大日本帝国軍]]による訓練を受けているインドネシアの若者]]
 
独立戦争が開始されるまでの数十年間、それまでも小規模な民族主義運動が起こってはいたが、オランダはそれらを全て抑え込むことに成功していた。そのため、日本人は将来のインドネシア独立のための基礎作りを行うことを保証した。占領期に、日本人はインドネシアの民族主義的感情を奨励および支援して新たにインドネシア人の機関を創設し、[[スカルノ]]のような民族主義の指導者らを後押しした。インドネシアの民族主義に備わった開放性は、日本人によるオランダ植民領の大部分の破壊と組み合わさって、第二次世界大戦後のインドネシア独立戦争の根幹となった{{sfn|Vickers|p=85}}。このように、オランダ植民地体制の破壊とインドネシアの[[ナショナリズム]]促進の両方を経験させた日本の占領が、太平洋戦争での日本降伏から数日以内に[[インドネシア独立宣言]]に至るだけの状況を作った<ref name="mizu"/>
 
とはいえ、占領当初は民族主義的な(赤と白の)インドネシアの旗の使用を許可した物の、2か月後に再び禁止した<ref name=”haga19”/>。実際、「国の政治組織や政府に関するいかなる議論、組織、思索、宣伝」が(メディアにおいても)厳禁とされた。彼らはオランダ領東インドを3地域に分け、それを「南方領土」と呼んだ{{Refnest|group="注釈"|これは蘭印だけを指す用語ではなく、マレー、グアム、パラオなど、大日本帝国軍が太平洋南側に進駐した占領地一帯のことを「南方領土」と呼んでいた。具体的な領土拡大(戦線)の経緯は[[南方作戦]]を参照。}}。1943年に東京が[[フィリピン第二共和国|フィリピン独立]]に向けた準備をしている間、彼らは同時進行でインドネシアの島々を大日本帝国に併合することを決定した。太平洋戦争が転機を迎える1944年末まで、日本側はインドネシアの独立を真剣に支持していなかった<ref name="Dahm 1966">{{de icon}} Dahm, Bernhard: ''Sukarnos Kampf um Indonesiens Unabhängigkeit. Werdegang und Ideen eines asiatischen Nationalisten''. (Publisher: Metzner, Frankfurt am Main, 1966. First published as Master thesis, University of Manheim, Kiel, 1964). p. 201–204</ref>。
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西側連合軍と戦争を遂行する過程において、インドネシアの人々の支持を得て、彼らを動員するため、日本の占領軍はインドネシアの民族主義運動を奨励してインドネシア人の国家主義的指導者をリクルートした。例えば、[[スカルノ]]、[[ハッタ]]、[[キ・ハジャル・デワンタラ]]らを動員し、1943年4月16日に「中央人民団結委員会(プテラ)」(''Putera''、({{lang-id|Pusat Tenaga Rakyat}})) を結成させてインドネシアの人民の支持を得ようとした。このプテラは1944年3月1日に「ジャワ奉公会」('' Jawa Hokokai '')に改編された。これらの組織に動員された人々の中には、[[ロームシャ]]として強制労働に従事させられた人もいた。
 
特にジャワとスマトラで、日本また、多くの若いインドネシア若者にエリートを育て、[[郷土防衛義勇軍]](Pembela Tanah Air:PETA)と呼ばれる義勇軍を結成も創設軍事訓練および武器の提供実施して武装させ彼らの民族主義的指導者ちに国民的自覚を与えた<ref name="mizu"/>。インドネシアの若者に施した日本の軍事訓練は、元々は目下崩壊しつつある大日本帝国の勢力圏([[大東亜共栄圏]])を支えるために現地住民の支援を得ることを目的としていたが、後のインドネシア独立戦争では[[インドネシア共和国]]にとって重要な資源となり、また1945年における[[インドネシア国軍]]の形成につながった<ref name="Henry"“Henry”/>。ジャワのPETAの他に、スマトラにはラスカル・ラヤット(国民軍)が創設された。しかしPETAやラスカル・ラヤットでは、インドネシア人を日本軍の指揮系統下とするために将校の養成は不足していた<ref name=mizu/>{{Sfn|桐山, 栗原, 根本|2019|p=166}}
 
1945年4月29日、ジャワ島における[[第16軍 (日本軍)]]の司令官である[[原田熊吉]]中将は、第16軍支配下にある地域の独立を確立させる初期段階として、[[独立準備調査会]](Badan Penyelidik Usaha Persiapan Kemerdekaan:BPUPK)を設立した{{sfn|Kusuma & Elson|2011|p=196}}。
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#オランダ人を一掃し、インドネシア人に高い地位を与え、能力と責任感を身につけさせた。
#ジャワにプートラ(民族結集組織)や、ホーコーカイ(奉公会)の本部を置き、国土の隅々まで支部を作り、組織の運営方法を教えた。
 
== 抵抗活動 ==
[[File:Amir Sjarifoeddin.jpg|thumb|left|upright|スラバヤを中心にレジスタンスを組織した{{仮リンク|アミル・シャリフディン|en|Amir Sjarifuddin}}]]
=== ジャワ島 ===
学生(Pemuda)を地下活動に導いた[[シャフリル|スタン・シャフリル]]に次ぐ、唯一の著名な反対派政治家は左派の{{仮リンク|アミル・シャリフディン|en|Amir Sjarifuddin}}で、彼はマルクス主義者や民族主義者との関係を通して地下の[[レジスタンス運動]]を組織するため1942年初頭に25,000[[ギルダー]]をオランダ人より与えられた。1943年に日本軍がアミルを逮捕するもインドネシアで人気があったことから、戦争遂行にとっての重要性が日本側に認識されていたスカルノの介入もあって処刑をかろうじて免れた。[[スラバヤ]]に拠点を置くアミルのグループ以外で、連合側に味方する最も積極的な活動集団は、中国人、[[アンボン島]]民、[[スラウェシ島]]の[[マナド]]市民だった<ref name="Reid p12">{{cite book| last = Reid| first = Anthony| authorlink =| title = The Indonesian National Revolution 1945–1950| publisher = Longman Pty| year = 1973| location = Melbourne| isbn = 978-0-582-71046-7| page = 12}}</ref>。
 
=== カリマンタン島 ===
南カリマンタンでは、ポンティアナック事件が起きる前、インドネシア人民族主義者とオランダ人による日本軍への反乱計画が発覚した<ref>[https://books.google.com/books?id=5oO6AAAAIAAJ&q=In+brief,+the+Japanese+had+discovered+a+plot+of+Dutch+and+Indonesian+nationalists+in+South+Kalimantan;+similar+intrigue+was+then+'found%22+in+operation+in+Pontianak.+It+was+announced+in+a+Malay+language+newspaper+that+the+plotters+were&dq=In+brief,+the+Japanese+had+discovered+a+plot+of+Dutch+and+Indonesian+nationalists+in+South+Kalimantan;+similar+intrigue+was+then+'found%22+in+operation+in+Pontianak.+It+was+announced+in+a+Malay+language+newspaper+that+the+plotters+were&hl=en&sa=X&ei=UwwiUpnPG6mlsQS-34G4CA&ved=0CCwQ6AEwAA Davidson 2002], p. 78.</ref>。一部の資料によると、これは1943年9月に南カリマンタンの{{仮リンク|アムンタイ|id|Amuntai}}で起こり、イスラム国家の創設や日本人の追放が含まれていたが、同計画は(日本軍によって)潰された<ref name="Ricklefs 2001">[https://books.google.com/books?id=0GrWCmZoEBMC&pg=PA252&dq=amuntai+japanese&hl=en&sa=X&ei=cyZDU96IPIWw2gWY3oCgCg&ved=0CEwQ6AEwBg#v=onepage&q=amuntai%20japanese&f=false Ricklefs 2001], p. 252.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=5Qf39DpguysC&pg=PA124&dq=Amuntai+South+Kalimantan+drive+Japanese+out+Islamic+state+1944+Muslims+killed+Japanese&hl=en&sa=X&ei=MSZDU6jCJuaA2AXP6YDQCA&ved=0CCwQ6wEwAA#v=onepage&q=Amuntai%20South%20Kalimantan%20drive%20Japanese%20out%20Islamic%20state%201944%20Muslims%20killed%20Japanese&f=false Federspiel 2007], p. 124.</ref>。
 
1943年に、日本軍は王族の一員である[[スルターン]]のTengku Rachmadu'llahを処刑した<ref>{{cite web |url=http://www.royalark.net/Indonesia/serdang.htm |title=SERDANG |last1=Buyers |first1= Christopher |date=January 2002 - January 2013 |website=The Royal Ark |publisher=Christopher Buyers |accessdate=2019-08-16 |quote=}}</ref>。1943-441944年の[[ポンティアナック事件]](マンドール事件としても知られる)にて、日本軍はカリマンタンでマレーのスルターン全員を含むマレー人エリートおよびアラブ人、中国人、インドネシア人<!--英語版原文では、ジャワ人、マナド人、ダヤク人、ブギス人、バタク人、ミナンカバウ人、と各地列挙されているが、分かりづらいため一括でインドネシア人とした-->、オランダ人、インド人、ユーラシア人の大量逮捕を行った。彼らは日本の統治を倒そうと企てたことで告発され、その後全員処刑された<!--英語版原文ではmassacre(大虐殺)という単語が使われている--><ref>[https://books.google.com/books?id=4WK2s2ogHEAC&pg=PA204&dq=A+list+of+the+condemned+conspirators+followed;+they+included+Malays,+Bugis,+Javanese,+Minangkabaus,+Bataks,+Menadonese,+Chinese,+Eurasians,+and+...+Prominent+on+the+list+were+the+native+rulers,+who+were+entirely+wiped+out+in+this+action.&hl=en&sa=X&ei=uStDU5aKFZDlyAHYw4CoCw&ved=0CCkQ6AEwAA#v=onepage&q=A%20list%20of%20the%20condemned%20conspirators%20followed%3B%20they%20included%20Malays%2C%20Bugis%2C%20Javanese%2C%20Minangkabaus%2C%20Bataks%2C%20Menadonese%2C%20Chinese%2C%20Eurasians%2C%20and%20...%20Prominent%20on%20the%20list%20were%20the%20native%20rulers%2C%20who%20were%20entirely%20wiped%20out%20in%20this%20action.&f=false Heidhues 2003], p. 204.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=RzVUOidajPAC&pg=PA42&dq=Pontianak+incident&hl=en&sa=X&ei=MCBDU6emFsa02AWru4DABA&ved=0CDYQ6AEwAg#v=onepage&q=Pontianak%20incident&f=false Ooi 2013], p. 42.</ref>。イスラーム教の{{仮リンク|ペムダ・ムハマディヤ|id|Pemuda Muhammadijah}}などの民族集団や組織のすべてが日本軍を転覆させて「西ボルネオ人民共和国(Negara Rakyat Borneo Barat)」を創設する計画に関与していた、と日本軍はうそぶいて主張した<ref>[https://books.google.com/books?id=4WK2s2ogHEAC&pg=PA205#v=onepage&q&f=false Heidhues 2003], p. 205.</ref>。日本軍は 「互いに敵対していたスルターン、中国人、インドネシア政府関係者、インド人、アラブ人が、日本軍を皆殺しにするため一丸となった」と主張し、計画された反乱の「首謀者」の一人として[[ポンティアナック]]のスルターンを名指しした<ref>[https://books.google.com/books?id=NZWqvMBu80kC&pg=PA160&dq=October+23+1943+Japanese+Sultan&hl=en&sa=X&ei=aSlDU4vMGufS2AWf1IEQ&ved=0CDAQ6wEwAA#v=onepage&q=October%2023%201943%20Japanese%20Sultan&f=false ed. Kratoska 2013], p. 160.</ref>。最大25人の貴族、ポンティアナックのスルターンの親族、ほか多くの著名人が計画の参加者として日本側に名指しされ、その後マンドール(Mandor)にて処刑された<ref>[https://books.google.com/books?id=5oO6AAAAIAAJ&q=Japanese+insti+gated+a+series+of+roundups+and+executions.+Victims+included+the+Sultan+of+Pontianak+(Syarif+Muhammad+Aiqadri),+dose+family+members+and+regional+nobles.+139+Intellectuals,+party+leaders+and+merchants+from+multiple+ethnic&dq=Japanese+insti+gated+a+series+of+roundups+and+executions.+Victims+included+the+Sultan+of+Pontianak+(Syarif+Muhammad+Aiqadri),+dose+family+members+and+regional+nobles.+139+Intellectuals,+party+leaders+and+merchants+from+multiple+ethnic&hl=en&sa=X&ei=TA8iUv6THKa2sQSejYGQBg&ved=0CC4Q6AEwAA Davidson 2002], p. 79.</ref><ref>[http://www.ari.nus.edu.sg/docs/wps/wps03_009.pdf Davidson 2003] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140518224034/http://www.ari.nus.edu.sg/docs/wps/wps03_009.pdf |date=18 May 2014 }}, p. 9.</ref>。ポンティアナックのほかにも、サンバス、ケタパン、メンパワなど各地のサルターン<!--Sambas, Ketapang, Soekadana, Simbang, Koeboe, Ngabang, Sanggau, Sekadau, Tajan, Singtan, and Mempawa で、サルターンの名前はSjarif Mohamed Alkadri, Mohamad Ibrahim Tsafidedin, Goesti Saoenan, Tengkoe Idris, Goesti Mesir, Sjarif Saleh, Goesti Abdoel Hamid, Ade Mohamad Arif, Goesti Mohamad Kelip, Goesti Djapar, Raden Abdul Bahri Danoe Perdana, and Mohammed Ahoufiek.羅列過剰なので3例+各地とした-->全員が日本軍によってそれぞれ処刑された<ref>[https://books.google.com/books?id=KnNVw8WjhAoC&pg=PA167&dq=Pontianak+incident+Mohamad&hl=en&sa=X&ei=-yBDU4GcM-eD2AWgwoGgCw&ved=0CCsQ6AEwAA#v=onepage&q=Pontianak%20incident%20Mohamad&f=false ed. Kratoska 2002], pp.&nbsp;167?168.</ref>。この事案は「12Dokoh(ジャワ語で12の垂れ飾り)」として知られている<ref>[https://books.google.com/books?id=DSDCzK6WbiUC&pg=RA1-PT62&dq=Pontianak+incident+Mohamed&hl=en&sa=X&ei=iyNDU6isKeewyQGwr4GQCQ&ved=0CDAQ6AEwAQ#v=onepage&q=Pontianak%20incident%20Mohamed&f=false Ooi 2013.]</ref>。
 
日本軍はシャリフ・モハマド・アルカドリというスルターンの息子である{{仮リンク|シャリフ・アブドゥル・ハミド・アルカドリ|en|Syarif Hamid II of Pontianak}}を投獄した<ref>[https://books.google.com/books?id=RzVUOidajPAC&pg=PA176&dq=Pontianak+incident+Mohamad&hl=en&sa=X&ei=-yBDU4GcM-eD2AWgwoGgCw&ved=0CDAQ6AEwAQ#v=onepage&q=Pontianak%20incident%20Mohamad&f=false Ooi 2013], p. 176.</ref>。処刑時期にジャワにいたため、このハミド2世は彼の家族の中で殺されなかった唯一の男性となったが、他方で日本軍はポンティアナックのスルターンであるムハンマド・アルカドリの男性親族28人全員を処刑した<ref>[http://www.iias.nl/sites/default/files/iias_nl56_0607_0.pdf Zweers 2011], p. 6.</ref>。日本軍によって処刑されたポンティアナックのスルターンの親族29人の中には、ポンティアナックの王位継承者がいた<ref>[http://www.hubert-herald.nl/IndoPontianak.htm Vries 2010.]</ref>。1944年後半に、同事件に関与しておりその残虐行為で知られていた、ナカタニという名前の日本人男性を[[ダヤク族]]が暗殺した。ポンティアナック・ムハンマド・アルカドリの4番目の息子、ペンゲラン・アゴーンともう一人の息子ペンゲラン・アディパティが、この事件で日本軍に殺害された<ref>[https://books.google.com/books?id=NZWqvMBu80kC&pg=PA168&dq=Pontianak+incident+mohammed&hl=en&sa=X&ei=TiNDU9DCNKPEyQHCiIGQBw&ved=0CCkQ6AEwAA#v=onepage&q=Pontianak%20incident%20mohammed&f=false ed. Kratoska 2013], p. 168.</ref>。日本側は公開処刑にて、この両名を斬首した<ref>[https://books.google.com/books?id=4WK2s2ogHEAC&pg=PA207&lpg=PA207&dq=sultans+beheaded+japanese&source=bl&ots=9pZ_6cLVKz&sig=aLbnGYYJ6LWA279-I3GYWBBV6zo&hl=en&sa=X&ved=0CFQQ6AEwCTgUahUKEwj8teanoNHGAhWMmYAKHVAwAKA#v=onepage&q=sultans%20beheaded%20japanese&f=false Heidhues 2003,] [https://books.google.com/books?id=4WK2s2ogHEAC&pg=PA207&lpg=PA207&dq=sultans+beheaded+japanese&source=bl&ots=9pZ_6cLVLz&sig=TlTsoj7VqIKJ6bAvmK8L85kZHpM&hl=en&sa=X&ved=0CB0Q6AEwADgeahUKEwjSzamsoNHGAhVGOj4KHeKLDFQ#v=onepage&q=sultans%20beheaded%20japanese&f=false p. 207.]</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=jVTwr9bYYukC&pg=PA86&lpg=PA86&dq=sultans+beheaded+japanese&source=bl&ots=7oDBWpO9jv&sig=PgLRwDvdToyN5CaNFVaH61lDqrk&hl=en&sa=X&ved=0CB0Q6AEwADgKahUKEwiywZyIoNHGAhVEjQ0KHXIbAa4#v=onepage&q=sultans%20beheaded%20japanese&f=false Felton 2007], p. 86.</ref>。
 
日本軍によるポンティアナックのマレー人エリートの殲滅は、代わりに新たなダヤク族エリート出現の道を作った<ref>[https://books.google.com/books?id=wpJGooepEMYC&pg=PA37&dq=Mandor+affair&hl=en&sa=X&ei=ESlDU-aOCOSw2wXa-4HABw&ved=0CDMQ6AEwAA#v=onepage&q=Mandor%20affair&f=false Davidson 2009], p. 37.</ref>。メアリー・F・ソマーズ・ヘイドゥーズによると、1945年5月から6月にかけて、{{仮リンク|サンガウ|en|Sanggau}}にいた何人かの日本人がダヤク族による反乱で殺害された<ref>[https://books.google.com/books?id=4WK2s2ogHEAC&pg=PA206#v=onepage&q&f=false Heidhues 2003], p. 206.</ref>。ジェイミー・S・デヴィッドソンによると、多くのダヤク族および日本人が殺害されたこの反乱は1945年4月から8月にかけて起こり、「マジャン村(Majang Desa)戦争」と呼ばれた<ref>[http://www.ari.nus.edu.sg/docs/wps/wps03_009.pdf Davidson 2003] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140518224034/http://www.ari.nus.edu.sg/docs/wps/wps03_009.pdf |date=18 May 2014 }}, p. 8.</ref>。ポンティアナック事件は、学者によって2つの事件に分けられ、異なる日にいくつかの段階で発生した集団殺害や逮捕に従って様々に分類されている。このポンティアナック事件はカリマンタンにいる中国人コミュニティに悪影響を与えた<ref>[https://books.google.com/books?id=NZWqvMBu80kC&pg=PA165&dq=Pontianak+incident&hl=en&sa=X&ei=MCBDU6emFsa02AWru4DABA&ved=0CCsQ6AEwAA#v=onepage&q=Pontianak%20incident&f=false ed. Kratoska 2013], p. 165.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=CKNrSgSaNgAC&pg=PA42&dq=Pontianak+incident&hl=en&sa=X&ei=MCBDU6emFsa02AWru4DABA&ved=0CDAQ6AEwAQ#v=onepage&q=Pontianak%20incident&f=false Hui 2011], p. 42.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=IzVFAQAAIAAJ&q=Pontianak+incident&dq=Pontianak+incident&hl=en&sa=X&ei=MCBDU6emFsa02AWru4DABA&ved=0CEYQ6AEwBQ Koninklijk Instituut voor Taal-, Land- en Volkenkunde (Netherlands). Afdeling Documentatie Modern Indonesie 2001], p. 41.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=T9A6BEmfkn8C&pg=PA75&dq=Pontianak+incident&hl=en&sa=X&ei=MCBDU6emFsa02AWru4DABA&ved=0CEoQ6AEwBg#v=onepage&q=Pontianak%20incident&f=false Baldacchino 2013], p. 75.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=VwNeusDwx9wC&pg=PA119&dq=Pontianak+incident&hl=en&sa=X&ei=MCBDU6emFsa02AWru4DABA&ved=0CEEQ6AEwBA#v=onepage&q=Pontianak%20incident&f=false Sai & Hoon 2013], p. 119.</ref>。
 
=== スマトラ島 ===
[[アチェ州]]の[[ウラマー]](イスラム法学者)は、1942年2月にオランダ側と対立して反乱を、そして1942年11月には日本側と対立して反乱を起こし、オランダ軍と日本軍の両方と戦った。この反乱は全アチェ宗教学者協会(PUSA)により主導された。この暴動で日本人は18名が死亡したが、他方で日本軍はアチェ人を最大100人または120人超にわたり大量殺害した<ref name="Ricklefs 2001"/><ref>[https://books.google.com/books?id=RcdwAAAAMAAJ&q=In+November+1942,+the+Japanese+found+themselves+putting+down+a+local+rebellion+against+their+rule+carried+out+by+the+same+Acehnese+who+had+removed+the+Dutch+to+make+way+for+their+arrival.+One+leader+of+a+religious+school+in+Cot+Plieng,+...&dq=In+November+1942,+the+Japanese+found+themselves+putting+down+a+local+rebellion+against+their+rule+carried+out+by+the+same+Acehnese+who+had+removed+the+Dutch+to+make+way+for+their+arrival.+One+leader+of+a+religious+school+in+Cot+Plieng,+...&hl=en&sa=X&ei=yydDU4riG6uG3AWk4oCIBA&ved=0CCkQ6AEwAA Martinkus 2004], p. 47.</ref>。この反乱はバユで発生し、Tjot Plieng村の宗教学校を中心に起こった<ref>[https://books.google.com/books?id=3NETAQAAMAAJ&q=When+the+resistance+of+the+religious+school+of+Tjot+Plieng+in+Bayu+was+ended+in+November+1942,+over+100+Acehnese+were+massacred,+18+Japanese+died,+and+yet+another+conqueror+had+learned+the+penalty+of+trying+to+deal+with+Aceh+by+force&dq=When+the+resistance+of+the+religious+school+of+Tjot+Plieng+in+Bayu+was+ended+in+November+1942,+over+100+Acehnese+were+massacred,+18+Japanese+died,+and+yet+another+conqueror+had+learned+the+penalty+of+trying+to+deal+with+Aceh+by+force&hl=en&sa=X&ei=pydDU67DG8OY2QXWrIHQCQ&ved=0CCsQ6AEwAA "Tempo: Indonesia's Weekly News Magazine, Volume 3, Issues 43-52" 2003], p. 27.</ref><ref>http://www.atjehcyber.net/2011/08/sejarah-jejak-perlawanan-aceh.html</ref><ref>[http://issuu.com/waspada/docs/waspada__sabtu_17_maret_2012/3 Pepatah Lama Di Aceh Utara]</ref><ref>[http://issuu.com/waspada/docs/waspada__sabtu_17_maret_2012 Pepatah Lama Di Aceh Utara]</ref>。同反乱中の11月10日と13日に、迫撃砲と機関銃で武装した日本軍はBuloh Gampong TeungahおよびTjot Plieng村にて、トンクゥ・アブドゥル・ジャリルの下で刀を振るうアチェ人に襲撃された<ref>[https://books.google.com/books?ei=nCx5U46bJvSlsQSPtYGACQ&id=BiTjAAAAMAAJ&dq=On+the+10th+and+13th+of+November+191*2+rebellion+broke+out+at+the+villages+of+Tjot+Plieng+and+Buloh+Gampong+Teungah+in+Acheh%2C+where+Teungku+Abduldjalil%27s+band+had+made+a+sword+attack+against+the+Japanese+machine-guns+and+mortars%2C+inspired+by+religious+fanaticism.&focus=searchwithinvolume&q=tjot+plieng "Berita Kadjian Sumatera: Sumatra Research Bulletin, Volumes 1-4" 1971], p. 35.</ref><ref>[https://books.google.com/books?ei=US55U6S6JsLgsASl3IGwDQ&id=v3kDBvr5UeYC&dq=Pemberontakan+dipimpin+oleh+kiai+muda%2C+Tengku+Abdul+Djalil%2C+guru+mengadji+di+Tjot+Plieng.+Ia+berontak%2C+sedangkan+kiai2+kebanjakan+masih+berpropaganda+untuk+Djepang.+Tanggal+10+November+tentara+Djepang+menjerang+pertahanannja+...&focus=searchwithinvolume&q=tjot+plieng Nasution 1963], p. 89.</ref><ref>[https://books.google.com/books?ei=eC55U-ydEKLKsQSHk4KoCg&id=cKbQAAAAMAAJ&dq=Tjot+Plieng+dibawah+pimpinan+Tengku+Abdul+Djalil%2C+guru+mengadji+di+Tjot+Pliengr+%28Atjeh%3B+awal+Nopember+1942%29+%3A+Pontianak+%28Kalimantan%3B+Oktobcr+1943%29.+Dua+peleton+PETA+dibawah+pimpinan+Teuku+Hamid+dari+M?-+rudu+%28Atjeh%3B+Nopember+...&focus=searchwithinvolume&q=Tjot+Plieng "Sedjarah Iahirnja Tentara Nasional Indonesia" 1970], p. 12.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=9AE5AQAAIAAJ&q=guru+agama+di+Tjot+Plieng+jang+bernama+Tengku+Abdul+Djalfl.+Meskipun+mereka+hanja+bersendjatakan+rentjong,+tombak+dan+beberapa+putjuk+senapan+tua,+namun+berkat+semangat+djihad+fi+sabilillah+itu+mereka+telah+bisa+memukul+mundur+...&dq=guru+agama+di+Tjot+Plieng+jang+bernama+Tengku+Abdul+Djalfl.+Meskipun+mereka+hanja+bersendjatakan+rentjong,+tombak+dan+beberapa+putjuk+senapan+tua,+namun+berkat+semangat+djihad+fi+sabilillah+itu+mereka+telah+bisa+memukul+mundur+...&hl=en&sa=X&ei=wy55U4vpJLXLsQSa_IDYDg&ved=0CC0Q6AEwAA "20 &#91;i. e Dua puluh&#93; tahun Indonesia merdeka, Volume 7"], p. 547.</ref><ref>[https://books.google.com/books?ei=Hi55U-XHCuapsQTikICQCg&id=KOyzISuyJlwC&dq=Dalam+tahun+1942+neletus+pemberontakan+di+Atjeh%2C+jakni+tak+lama+setelah+Djepang+nenduduki+daerah+itu%2C+Pembe+-+rontakan+itu+dipimpin+oleh+Kiai+Muda+Tengku+Abdul+Dja-+lil%2C+guru+nengadji+di+Tjot+Plieng%2C+Ia+nemberontak+pada+saat+2+k+ia+i+2&focus=searchwithinvolume&q=tjot+plieng "Sedjarah TNI-Angkatan Darat, 1945-1965. &#91;Tjet. 1.&#93;" 1965], p. 8.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=QtsRAAAAMAAJ&q=guru+agama+di+Tjot+Plieng+jang+bernama+Tengku+Abdul+Djalfl.+Meskipun+mereka+hanja+bersendjatakan+rentjong,+tombak+dan+beberapa+putjuk+senapan+tua,+namun+berkat+semangat+djihad+fi+sabilillah+itu+mereka+telah+bisa+memukul+mundur+...&dq=guru+agama+di+Tjot+Plieng+jang+bernama+Tengku+Abdul+Djalfl.+Meskipun+mereka+hanja+bersendjatakan+rentjong,+tombak+dan+beberapa+putjuk+senapan+tua,+namun+berkat+semangat+djihad+fi+sabilillah+itu+mereka+telah+bisa+memukul+mundur+...&hl=en&sa=X&ei=wy55U4vpJLXLsQSa_IDYDg&ved=0CDUQ6AEwAQ "20 tahun Indonesia merdeka, Volume 7"], p. 545.</ref><ref>Atjeh Post, Minggu Ke III September 1990. halaman I & Atjeh Post, Minggu Ke IV September 1990 halaman I</ref>。1945年5月、アチェ人は再び反乱を起こした<ref>[https://books.google.com/books?id=BpZuAAAAMAAJ&q=village+and+the+mosque+at+the+beginning+of+November.+In+the+fighting+that+ensued,+18+Japanese+were+killed+and+more+than+120+Acehnese+perished.+Furthermore+a+local+revolt+broke+out+in+Aceh+in+May+1945.&dq=village+and+the+mosque+at+the+beginning+of+November.+In+the+fighting+that+ensued,+18+Japanese+were+killed+and+more+than+120+Acehnese+perished.+Furthermore+a+local+revolt+broke+out+in+Aceh+in+May+1945.&hl=en&sa=X&ei=IShDU8LuGKbO2wWG5YCIDQ&ved=0CCsQ6AEwAA Jong 2000], p. 189.</ref>。
 
== 占領の終結 ==
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[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー最高司令官]]は1944-45年にジャワを解放すべく連合国軍と共に戦おうとしたが、統合参謀本部および[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト大統領]]からの命令が下りなかった。 そのため日本の占領は[[ポツダム宣言]]受諾による降伏で正式に終結し、その2日後にスカルノがインドネシア独立を宣言した。しかしインドネシア軍はその後4年間、独立に向けて今度はオランダと戦うことになる。
 
[[インドネシア独立戦争|独立戦争]]では、独立が達成される前に数万いや数十万の人々{{Refnest|group="注釈"|独立戦争におけるインドネシア側の推定死亡者数は4万5千から10万人、そのほか民間人の死亡者数が2万5千人超で最大10万人にのぼる可能性があるとされる。詳細は英語版[[:en:Indonesian National Revolution#Impacts]]を参照。<!-- とある日本語サイトではこの犠牲者数を「80万人」と表記しているが、そこには内訳などの根拠が見られず(当方が確認する限り)犠牲者80万人の信ぴょう性は得られなかった-->}}が日本軍、連合軍、および対立するインドネシア人との戦いで死亡することになった{{sfn|Vickers|p=85}}{{sfn|Ricklefs|1993|p=207}}。
 
アメリカ側がジャワでの戦争を抑制したことで、確かに日本人、ジャワ人、オランダ人、アメリカ人の多くの命が救われた。ただし、マッカーサーが自分のやり方を採用してアメリカ軍がジャワを占領した場合、インドネシアの独立はより迅速かつ円滑に達成されただろうとする説もある{{sfn|Friend|p=33}}。後年の国連報告書は、日本による占領の結果としてインドネシアでは400万人が死亡したと記している<ref>Cited in: Dower, John W. ''War Without Mercy: Race and Power in the Pacific War'' (1986; Pantheon; {{ISBN|0-394-75172-8}}).</ref>。1944-45年にかけて、ジャワでは約240万人が食料不足で死亡したとされる<ref>{{cite paper|last=Van der Eng|first=Pierre|year=2008|title=Food Supply in Java during War and Decolonisation, 1940-1950|website=Munich Personal RePEc Archive|number=8852|pages=35-38|url=http://mpra.ub.uni-muenchen.de/8852/}}</ref>。
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この送還プロセスは大部分の個人にとって約1年、しばしば2年以上かかったものの、ほとんどの日本軍兵士および植民地管理の文民が戦後日本に送還された。数千人以上の肉体労働や治安維持活動といった戦争犯罪に関する選別および約1038人の個人に対する[[BC級戦犯#オランダ裁判|戦争犯罪裁判]]を経て、彼らは残りの日本の船で日本に送還された。約1,000人の日本人兵士が自分達の部隊(当時は連合軍の指揮下)から脱走し、彼らは自分自身を現地のコミュニティに同化させた。これら兵士の多くはTNIや他のインドネシア軍事組織に加わり、アブドゥル・ラクマン([[市来龍夫]])を含むこうした元日本兵の多くはインドネシア独立戦争で死んだ<ref>{{cite book|last1=Horton|first1=William Bradley|title=History Unhinged: World War II and the Reshaping of Indonesian History|date=July 2016|publisher=Waseda University|location=Tokyo|edition=A dissertation submitted to the Graduate School of Literature, Waseda University}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Got?|first1=Kenichi|title=Life and Death of "Abdul Rachman" (1906 -- 49): One Aspect of Japanese-Indonesian Relationships|journal=Indonesia|date=October 1976|volume=22|pages=57?68|url=http://cip.cornell.edu/seap.indo/1107107677|doi=10.2307/3350977|jstor=3350977}}</ref><ref name="Tjandraningsih 2009-09-09">Tjandraningsih, Christine, ([[Kyodo News]]), "[http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/nn20090909f2.html Japanese recounts role fighting to free Indonesia]", ''[[Japan Times]]'', 9 September 2009, p. 3.</ref>
<ref name="Tjandraningsih 2011-08-19">Tjandraningsih, Christine T., "[http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/nn20110819f2.html Indonesians to get book on Japanese freedom fighter]", ''[[Japan Times]]'', 19 August 2011, p. 3.</ref>。太平洋戦争後も残留していた有志の日本軍将兵の1,000人以上(約2,000人が残留し、その半数が戦死したとされる<ref name="Henry"/>)がその後のインドネシア独立軍に参加することになる<ref name="mizu"/>。
 
[[File:Becak Tugu Muda Semarang Central Java.jpg|thumb|日本軍とインドネシア共和国軍の最大の武力衝突である、スマラン市の青年団が日本軍政当局と5日にわたって[[竹槍]]で戦った「スマラン事件」を記念する「[[:id:Tugu Muda|青年の碑]](Tugu Muda)」。「飢餓」「戦闘」「暴力」「犠牲」「勝利」を象徴するレリーフが刻まれた5本の竹槍が合体した蝋燭のような形をしている。その右下に見えるのが「スマラン事件」の象徴である5本の竹槍のオブジェである]]
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=== 文化 ===
慰安婦をテーマとした小説として、{{仮リンク|ティティ・サイド|en|Titie Said}}の『ファティマ』(1981年)や{{仮リンク|パンディル・クラナ|id|Pandir Kelana}}の『カダルワティ』(1982年)が出版され、これらの作品は映画化された。慰安婦をテーマとするテレビドラマシリーズとして『証言』(1994年)も制作された{{sfn|プラムディヤ・アナンタ・トゥール|2013|p=11}}。強制労働については『[[労務者 (映画)|ロームシャ]]』(1973年)という映画が製作された{{Sfn|ルビス|1980|pp=191-192}}。
 
== 出典・脚注 ==
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{{Reflist|3|}}
 
=== 参考文献 ===
<!-- 出典で「著者+年」表記された書誌のみ -->
* {{cite book|title= The Political Economy of Divided Islands: Unified Geographies, Multiple Polities|editor-first=Godfrey|editor-last=Baldacchino|volume=|edition=|year=2013|publisher=Palgrave Macmillan|url=https://books.google.com/?id=T9A6BEmfkn8C&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false|isbn=978-1-137-02313-1|accessdate=10 March 2014| ref = {{harvid||}} }}
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| year = 1999
}}
* {{Cite journal|和書|author=[[太田淳]] |title=記憶されるインドネシア : 1945-70年の日本小説に描かれる戦時占領 |url=http://hdl.handle.net/2065/39119 |journal=アジア太平洋討究 |publisher=早稲田大学アジア太平洋研究センター |year=2013 |month=feb |volume=20 |issue= |pages=121-136 |naid= |issn=1347-149X |accessdate=2020-08-03 |ref={{sfnref|太田|2013}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[大庭三枝 (政治学者)|大庭三枝]] |title=日–東南アジア間の歴史認識をめぐる諸相 |url=https://doi.org/10.11479/asianstudies.66.4_68 |journal=アジア研究 |publisher=アジア政経学会 |year=2020 |month=oct |volume=66 |issue=4 |pages=68-87 |naid= |issn= |accessdate=2020-08-03 |ref={{sfnref|大庭|2020}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[木村一信]] |title=阿部知二とインドネシア体験(一) : その事実を巡って |url=http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/3-3/RitsIILCS_3.3pp.53-68Kimura.pdf |journal=立命館言語文化研究 |publisher=立命館大学 |year=1992 |month=jan |volume=3 |issue= |pages=53-68 |naid= |issn= |accessdate=2020-08-03 |ref={{sfnref|木村|1992}}}}
* {{Citation| 和書| author1 = [[桐山昇]]| author2 = [[栗原浩英]]| author3 = [[根本敬 (ビルマ研究家)|根本敬]]| ref = {{sfnref|桐山, 栗原, 根本|2019}}| title = 東南アジアの歴史 - 人・物・文化の交流史 新版| series = 有斐閣アルマ| publisher = [[有斐閣]]| pages = | periodical = | year = 2019}}
* {{Cite web | url = https://www.awf.or.jp/pdf/0062_p089_105.pdf | author = [[倉沢愛子]] | title = インドネシアにおける慰安婦調査報告 | publisher = [[アジア女性基金]] | date = 1999 | accessdate = 2020-08-08 | format = PDF | ref ={{Harvid|倉沢|1999}}}}
* {{Citation| 和書
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}}
* {{Cite journal|和書|author=[[小林和夫]] |title=インドネシアの住民組織RT・RWの淵源 : 日本占領期ジャワにおける隣組・字常会の導入 |url=http://hdl.handle.net/10748/00009166 |journal=総合都市研究 |publisher=東京都立大学都市研究センター |year=2000 |month=mar |volume=71 |issue= |pages=175-192 |naid= |issn=03863506 |accessdate=2020-08-03 |ref={{sfnref|小林|2000}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[佐藤正範]] |title=インドネシアの歴史教科書における「ロームシャ」について |url=http://hdl.handle.net/2433/56532 |journal=東南アジア研究 |publisher=京都大学東南アジア研究センター |year=1995 |month=mar |volume=32 |issue=4 |pages=495-522 |naid= |issn= |accessdate=2020-08-03 |ref={{sfnref|佐藤|1995}}}}
* {{Citation| 和書
| author = [[白石隆]]
308 ⟶ 333行目:
|title= 日本軍に棄てられた少女たち (増補改訂版)
| ref = {{sfnref|プラムディヤ・アナンタ・トゥール|2013}}
|translator = [[山田道隆]]
|publisher= コモンズ
| series =
315 ⟶ 340行目:
* {{Citation|和書|author1=[[ヘンリー・スコット・ストークス]] |author2=[[加瀬英明]] |translator=藤田裕行 |date=2012-08 |title=なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか |publisher=[[祥伝社新書]] |isbn=978-4396112875 |ref={{Harvid|ヘンリー|2012}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[中尾知代]] |title=日本・オランダ・インドネシア三国間のわだかまり |url=http://www.ritsumei.ac.jp/mng/er/wp-museum/publication/journal/documents/02_p53.pdf |journal=立命館平和研究 |publisher=立命館大学国際平和ミュージアム |year=2001 |month= |volume=2 |issue= |pages=53-59 |naid= |issn= |accessdate=2020-08-03 |ref={{sfnref|中尾|2001}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[姫本由美子]] |title=日本占領期のインドネシア文学 : 啓民文化指導所に集った作家たちの作品 |url=http://hdl.handle.net/2065/31775 |journal=アジア太平洋研究科論集 |publisher=早稲田大学大学院アジア太平洋研究科出版・編集委員会 |year=2011 |month=jan |volume=20 |issue= |pages=1-25 |naid= |issn=1346-6348 |accessdate=2020-08-03 |ref={{sfnref|姫本|2011}}}}
* {{Cite journal|和書|author=姫本由美子 |title=日本侵攻前夜のインドネシア知識人のアジア認識 -サヌシ・パネらはその時いかに「インドネシア的なるもの」を構想したか- |url=http://hdl.handle.net/2065/51579 |journal=アジア太平洋討究 |publisher=早稲田大学アジア太平洋研究センター |year=2016 |month=oct |volume=27 |issue= |pages=135-163 |naid= |issn=1347-149X |accessdate=2020-08-03 |ref={{sfnref|姫本|2016}}}}
* {{Cite journal|和書|author=姫本由美子 |title=日本占領下のインドネシアをめぐる「報道」と「宣伝」のはざまで -朝日新聞社所蔵写真を手掛かりに- |url=http://hdl.handle.net/2065/00052426 |journal=アジア太平洋討究 |publisher=早稲田大学アジア太平洋研究センター |year=2017 |month=mar |volume=28 |issue= |pages=1-25 |naid= |issn=1347-149X |accessdate=2020-08-03 |ref={{sfnref|姫本|2017}}}}
332 ⟶ 357行目:
| year = 1989
}}
* {{Cite journal|和書|author=[[丸山彩]] |title=日本軍政下のジャワにおける歌 : グラフ雑誌『ジャワ・バル Djawa Baroe』を素材に |url=http://doi.org/10.34382/00004474 |journal=立命館大学人文科学研究所紀要 |publisher=立命館大学人文科学研究所 |year=2016 |month=mar |volume=107 |issue= |pages=25-48 |naid= |issn=0287-3303 |accessdate=2020-08-03 |ref={{sfnref|丸山|2016}}}}
* {{Citation|和書|author=[[水間政憲]] |date=2013-08 |title=ひと目でわかる「アジア解放」時代の日本精神 |publisher=[[PHP研究所]] |isbn=978-4569813899 |ref={{Harvid|水間|2013}}}}
* {{Citation| 和書| author =[[宮本謙介]] | ref = {{sfnref|宮本|2003}}| title = 概説インドネシア経済史 | series = 有斐閣選書| publisher = 有斐閣| pages = | periodical = | year = 2003}}
* {{Citation| 和書
| author = [[山﨑功]]
| chapter = インドネシア未完の民族革命−独立宣言からスカルノ末期まで
| ref = {{sfnref|山﨑|2002}}
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| year = 2002
}}
* {{Cite web | url = https://www.awf.or.jp/pdf/0062_p107_141.pdf | author = [[山本まゆみ (人類学者)|山本まゆみ]], [[ウィリアム・ブラッドリー・ホートン]] | title = 日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告 | publisher = アジア女性基金 | date = 1999 | accessdate = 2020-08-08 | format = PDF | ref ={{Harvid|山本, ホートン|1999}}}}
* {{Citation| 和書
| author ={{仮リンク|モフタル・ルビス|id|Mochtar Lubis|en|Mochtar Lubis}}
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== 関連文献 ==
* {{Citation| 和書
| author = [[イ・ワヤン・バドリカ]]
|year= 2008
|date=
379 ⟶ 404行目:
|title= {{仮リンク|五十年ぶりの日本軍抑留所―バンドンへの旅|en|Bougainville (novel)}}
| ref = {{sfnref|スプリンガー|2000}}
|translator = [[近藤紀子]]
|publisher= 草思社
| series =
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|title= 忘れられた人びと―日本軍に抑留された女たち・子どもたち
| ref = {{sfnref|ヒューイ|1998}}
|translator = [[伊吹由歌子]]ほか
|publisher= 梨の木舎
| series =